2015年2月21日土曜日

苦労したい人生

「苦労したい」という感情が沸々と湧き上がってくるようになったのがこの1,2ヶ月のことで、今こうやって振り返りながら、事の起こりは年末だったのかもしれないと回想している。

年末、ぼくはボルダリングについて考えていた。ボルダリングは人生のようだ。向き不向きがあることをその場で目の当たりにしながら、それでも着実に挑戦を調整を重ねて課題をクリアする。友人にアドバイスを請う。他プレイヤーの登り方を観察して真似をする。1ヶ月掛けても出来なかった課題を、初めてボルダリングに来たセンス溢れるイケメンがあっという間にクリアしていく。そういう紆余曲折、喜怒哀楽のプロセス全てが人生と酷似している。だからぼくはボルダリングを辞めたくない。辛い気持ちの中コツコツ努力を重ねる習慣がもう他にはないから。そんな感じのことを考えていた。

今ぼくが苦労したいと感じているのは、人生のことだ。ボルダリングで感じていることを自分の人生そのものでも感じられるようにしたい。周りの皆は人生苦労しているのだろうか。もちろん非常に辛い苦労をしている人たちが世の中にいることは知っているが、自分の中で苦労というのは中学校くらいまでで、その後はあまりした記憶がない。うまく妥協出来るようになったことと、予想外のことが減ってきていることがその理由なのではないかと思う。ボルダリングは人生のようだと思った割に、人生はあまり苦労していなかった。

本来一般的なオトナになるということは、自分の人生に対して慣れ、突飛なことをしようという気持ちも薄れ、範疇外のことがなくなっていくこと。そしてそこで生まれた時間で子孫繁栄に注力していくということなのかもしれない。世の中を変えていく人、大きな変化を起こす人は本当に極稀なのであって、そういう人たち以外の凡人は、生物学的な予定調和な営みの中に埋め込まれている欠片でしかないような気もする。そうすると、まだ20代後半のぼくにとっては残り60年前後という時間がとてつもなく長く感じられてとても虚しい気持ちになる。自分の世界に全てが収まっているというのは、なんてつまらない人生なんだろう。この感覚は自分としては結構自然で、22歳まではひたすら新しいことを学び、新しい人と出会い、新しい世界に繰り出していた期間なのに、以降60年間そういう刺激はありませんと言われる方が土台無理な話。外的な刺激は減り、内的な刺激受容体の感度も鈍くなる中で今までの刺激的な時間の3倍もの時間を過ごさなければならないなんて苦痛でしかない。

新しいことを始めたい。でも歳を重ねれば重ねるほど、新しく何かを始めるというのは大変なことだろうと思う。子どもの時には全てが知らないこと分からないことで、一つ一つできるようになるためにがんばってきた、それが当たり前だったわけだけど、オトナになるということはそういうことがなくなるということなのだから、当然のことだ。また、それは自分の内的な話だけではなく、周りからの目という意味でも、圧力を感じる行為になってくる。オトナになるということは家族を養うということ、という考え方は上述した自分の一つの感覚であり、世間的な認識とずれてはいないと思うが、いつかの結婚、出産、育児、そういう時のために、リスクは出来るだけ排除したい、そういう考え方になっても不思議ではない。加齢は挑戦コストを引き上げる。

その挑戦コストを引き下げるためにはどうすればいいのだろうか。その直感的な答えが「苦労すること」というのが今のところの結論。本当は苦労はしないに越したことはないと思っている。自分に合っていること、得意なことをやっていけばいいと思っている。けれど、歳を取れば取るほどそういう領域は狭まっていくので、「苦労しない」ということを前提に道を選ぼうとすると、とてつもなく選択肢が少なくなってしまう。そうなってしまっては刺激を得られるようなことは出来ない。だから「苦労する」経験をあえてすることで、少し無理してでもチャレンジする姿勢を自分の中に残し続けることが出来るのではないかと考えている。

今1,2つ、うまくいかないこと、元々苦手なことだけれど、やれたらいいなと思うことがあって、それに挑戦していこうかなと思っている。新しいことにチャレンジすることが当たり前だった子ども時代から、新しいことにチャレンジするのはおかしいオトナ時代。そういう現状に自分の人生もハマってしまわないように、折々自分の範疇外のことに挑戦していけるように、まだまだ<苦労>は買ってでもしていきたいなと、思う次第であります。