ちょっと前、@mtamacoさんに対してのリプライが(ぼくにとって)かなりの反響がありました。幸せについてのつぶやきです。
この考え方にはちょうど1年前くらいにたどり着いていて、「2012年に振り返ったときにどう感じるか楽しみ」と締めくくっていたのですが、どうやらこの1年では変化しなかったようです。
そのまま過去ブログをコピペしてみることにします。
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最近、22歳にして「人生幸せだ」と唐突に思い始めました。
すごく新鮮だったので、ブログにまとめながら考えを整理していこうと思います。
ぐちゃぐちゃな部分もあるかもしれないけど、今こういう気持ちでいるってことが大切な気がするのでそこにはあまり頭を使わないことにします。
とりあえず言いたいことは
・幸せに大小はない
・幸せは掴むものじゃなくて気づくもの
です。
備忘録色強めですが、暇つぶしにでも読んでいただければ嬉しいです。
■幸せに大小はない
今回の幸せだって感じるようになったその前後で何があったかと考えてみても物理的に変わったことっていうのはほとんどなくて、ただ、幸せって感覚に大小をつけなくなったかなと考えてみて思っています。どちらかというと数を数える感覚が強い。
「清々しく晴れた昼下がりに、好きな音楽シャカシャカいわせて、てくてく歩いて、それだけで踊りだしたくなる幸せ」とか、
「打ち合わせして、あーだこーだ話して、その後にラーメン食べにいく。にんにく臭くなることも、太ることも承知で、替え玉まで頼んでお腹いっぱいで苦しくなる幸せ」とか、
「実家帰って、食べて、アニメ見て、アニメ見て、アニ(ry幸せ。」とか。
こういう小さなことに幸せを感じるようになって、幸せだなぁって思い始めたらアレもコレも幸せな気がしてきて、「おーいっぱい幸せがある」ていうイメージです。
幸せとか楽しさに大小の差があると思うと、
これってほんとに楽しいのか?とか、今までで一番幸せなのか?とか考え出しちゃうけど、小さく見えるその感情が、実は感情の全てなんじゃないのかなぁっていう。
こんな稚拙な文章で後で読み返して意味理解できるのかわからないですが、
だからぼくは幸せです。
■幸せは掴むものじゃなくて気づくもの
幸せって、たいていの場合すごく普遍的で誰にでも共通の要素なんじゃないかなって思っています。
でも見つけ辛いものだから、「あるようでなくて、ないようである」、そういう不安定なもの。
その不安定さは自分の心持ちに依存していて、見つかるか見つからないかが決まる。
お金と幸せがずっと比例関係にあるわけじゃなくて年収がある程度になったら無関係になるのも、
必要量のお金があって一般的な生活を出来るようになったら、誰でも幸せになれる可能性があることを示しているのではないかと思っていてます。
なぜなら「幸せはそこにあるもの」だから、繰り返しになるけど。
頑張って手に入れたりするものじゃなくて気づくもので。
幸せになれるかなれないかは頑張りとは関係ない、頑張ってお金を稼いだりとかとは関係ない。
そうじゃなくて、今の生活の中でいくつの幸せを見つけられるかっていうところが肝なんじゃないかな。
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自分の日常に溢れている幸せに気づくこと、そしてその幸せに感謝することから。