BLOGOSに掲載されていた記事朝日新聞の特定秘密保護法案への反対報道に思うにて引用されていた戦争責任者の問題-伊丹万作がとても心に響いたので、ひとまず引用して残しつつ、自分の感じたことを書く。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
ここでいうだますだまされるという関係性が成り立つのは、正解のわからない未来のことについて論じているからだ。その過程では、結果的にだましてしまった人たちはだます気持ちなんてサラサラなかっただろうし、結果的にだまされたことになった人もだまされたとは思っていないはずで、つまり自分の意思とは関係なく相手をだまし、対象の置かれる状況が悪化することに積極的に加担してしまう可能性があるということだ。このだますだまされるという関係性から解放されるために必要なことは、知識の不足を正すほかないと思うが、ここで問題なのは、自分が知識不足を補い強い意志を持ったとしても、他人が変わらなければ、結局だますだまされるという関係性は自分とその相手の間でも、その相手とまた他の誰かとの間でも、依然として存在し続ける。つまり、この関係性は一生なくならないということだ。
質が悪いのは、これらのようなだますだまされる関係性が顕在化するのは、往々にして政治のような国の進退に関わる非常に大きな問題について意見を持たなければならないときで、自国を貶めようなどと思っている国民が一人もいない以上、気持ちとしては事態を良い方向に持って行こうと皆が思っていることだ。未来のことだから絶対はありえない。でも国を良くしたいという気持ちは皆変わらない。その目的を達成するために選ぶべきと考える手段が違う。どうしようもない溝である。ここに戦争だの原発だのと悪の権化のような事象が関わってくるともう手のつけようがない。伊丹さんの挙げた言葉を使ってまとめるなら、みんな国を良くしたいという意志はある。にもかかわらず知識が追いついておらずえらいことになりかねない、というのが現状なのだと思う。
今回の特定秘密保護法案に限らず、最近は政治的なイベント前後にはFacebookでたくさんの賛同を求めるコメントや過激なコメントがシェアされてくる。署名だの、デモだの。そういう色々な人の意志がリアルな関係性をベースにしたFacebookでばら撒かれる。伊丹さんの仰っている通りだ。だますだまされる関係性は身近なところから作られていく。Twitterなどの匿名な場所でばら撒くよりも、リアルな関係性の中に意志を持ち込むことの方がよっぽど強力だ。
皆法案に全部目を通したのだろうか?ちゃんと理解できているのであろうか?わたしはきっとNOだと思うし、もし仮にYESだったとしても、自分が理解できていない以上積極的に彼らの意志に賛同することはできない。だからと言って、わたしのようなどっちつかずな状況は賞賛されるべきものではない。今のわたし状態は、理由こそ違えど伊丹さんが戦争に関係のある映画を書いていない状況と似ている。伊丹さんは積極的に戦争に関わろうとしていたという意味で本質的にはだます側だったのかもしれず、わたしは自分の意志を発信していないので誰もだましてはいないが、もし今回の件で国の状態が悪化することになったとしたら、わたしも消極的にではあるが悪化に加担したことに変わりはない。
政治に関わるということ、国の将来に責任を持つということは、本当に怖いことだ。国民同士が勝手にだましてだまされて、そうやって未来が決まっていく。わたしが何より怖いのは、戦争だの原発だのセンシティブな課題になればなるほど、皆が感情的になることだ。彼らなりの大義をなすという意志のもと、多くの知識のない人が扇動され、だまし合いが始まっていく。そこでは差別も起きるだろうし、暴力も起きるだろう。プロバガンダなどが批判されるが、メディアが何と言ってようと、個人がだまされない意志と知識があれば問題にはならない。そうやって自分以外の誰かに責任を押し付けるような姿勢では、国は良くなっていかないだろう。と言いつつ、勉強すべきことが多すぎてどうすればよいか皆目検討もつかないのだが。