2012年11月11日日曜日

命と死とジレンマ

実は11月4日の夜に、血縁ではないけれど去年お世話になった人が亡くなりました。
ぼくの誕生日は11月5日で、静かに息を引き取る命があった次の日に、自分は生誕を祝われたわけで。
この世界のどこかではいつでも新しい命が芽吹き、そして老いた命が消えていってることを強く実感させられました。

先日 our daily breadという映画を見ました。

僕たちが日常的に食べている食べ物がどうやってぼくらの手元に届くのか、その過程を定点観測した様子をただひたすら流す映画なのだけれど。
そこではたくさんの命が、人間様の食物生産過程の中で消えていっていて。

でもそれがそこで働く人たちの日常であり、その生命の抜け殻を食すのが僕たちの日常であり、そうやって他の命を殺めてその抜け殻を食してきた、その繰り返しが生物の生きてきた道であり歴史なわけで。

別に命を殺すなということが言いたいのではなくて。
ベジタリアンになれと言いたいのでもなくて。むしろ植物にも命はあるんだと思うくらいなわけで。

そうではなくて、ぼくらにとって近い存在であるはずの命が、こんなにも遠くに行ってしまった、いや、僕たち自身がその命という存在から遠ざかってしまったということが、
なんとなく憂慮しなければならないことのような気がしているということです。

最近好きなバンドに「世界の終わり」というバンドがありまして、
今は「SEKAI NO OWARI」という表記で活動しているのだけれど、
彼らの曲に「虹色の戦争」という曲があります。



--------------
虫に歌があるなら何を叫ぶのだろう
「平和の解放」の歌を世界に響かせてるだろう

自由に耳があるなら何が聴こえるだろう
偽物の平和の歌が爆音で聴こえるだろう

虫が叫ぶ平和な世界で僕らは愛を歌っている
虫籠の中で終わりを迎えた「命」は僕に何て言うだろう

生物達の虹色の戦争
貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く
The War Of The Rainbow Color
--------------

ぼくはこの曲を聴いてショックでした。
こういう感覚でこの世界を見たことがなかったから。
それでも一方で深瀬さん(ボーカル)は「頭に響く」と歌う。

ぼくらが生きている今日も、世界のどこかで誰かが死んでいるし、
ぼくらが得した日でも、誰かが損をしているし、
ぼくらが笑った日でも、誰かが泣いているし、
ぼくらが愛の素晴らしさを歌っている間にも、誰かが愛を感じられなくて塞ぎこんでいるし、
ぼくらがぼくらの平和を願うということは、誰かの平和を壊しているということで、
そういう戦争が常に起こっていることにぼくらは気づかずに、今日もまた笑いながら誰かを殺してる。

一度でも、その「誰か」の声が頭に響いたことはありますか?
そんなことを考えた、24年と3日目の夜でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿