合理的非消費者を消費者に変えて、消費文化を再構築する
消費全体のマクロトレンドがどうなっているのか、ぼくはよくわからない。内閣府の実施している消費動向調査を時系列でみる限りでは、消費者の意識としてはこの25年の間で下がって少しずつ回復しているという状況のようだ。これは意識の問題であって、どのくらいのお金が使われているかを示すものではないけれど。特定の商品で見てくと、新聞が売れない、雑誌が売れない、車が売れない、ビールが売れない、テレビが売れない、、、。売れない話はたくさんある。買い控えが膨大に起きているのであればGDPも減る気がする。ということはどこか別の場所でお金が使われているのだろう。ただ、総体としてお金が使われていようが、自分の売りたいものが売れないと意味がないのが企業だと思うし、巷に多く溢れかえっている社会起業的な組織による事業も、B2Cの部分で買ってもらわないと成り立たないものもたくさんある。
いい商品がなくなったのか?高性能なものがいい商品なのであればその答えはNOであるし、消費者のニーズをとらえた商品がいい商品なのであれば、その答えはYESかもしれない。消費者の求めているものを特定するために、大企業はリサーチにお金をかける。
最近よく見かける地方や地元の職人を守る、伝統工芸品をおしゃれにデザインする、などなどをコンセプトにした事業がある。買い手がいないから廃れているのだけど、なぜ買い手がいなくなったのだろうか。先日とあるデザイナーさんから小耳にはさんだ話によると、どうやら昔は人生のライフステージおいて、「○○のときは××を買う」という習慣、文化があったということだった。職人さんの作る製品はべら棒に高い。今世に出ている商品の性能・価格と天秤にかけてしまったら負けるも同然である。でも昔はそれを買う文化があったと言うのである。おもしろいなと思った。
先々日、東北の復興に関わる先輩は「最近消費に興味があるんだよね」と言っていた。曰く、「ギャルとかヤンキーとか、バカみたいにお金を使っちゃう人たちをさ、ぼくらは尊敬しなきゃいけないと思うだよね(意訳)」ということらしい。ギャルやヤンキーが本当にお金をバカバカ使っているかはともかくとして、何となく言わんとしていることはわかる気がする。ちょっと前に大黒埠頭にドライブに行ったとき、20代のヒップホップダンスやってますイエェーイみたいなお兄さんたちが、トランク部分にキラキラ光るスピーカーを埋め込んだミニバンを止めて、大音量で音楽を流しながら楽しそうにしゃべっているのを見かけたりしたこともある。「大黒埠頭 車」で画像検索したらすぐに出てきたので載せておく。ここまで来ると、相当お金稼いでるからこんなことできるんじゃないか、という気もするけれど、地元にいるような土方のヤンキーほど車やバイクを改造するという話ともリンクする気がするので、実態は不明。
ここまで色々と回想してみて思うに、現代はもう情報が溢れすぎてしまって、合理的すぎる消費者ばかりになってしまったのだろう。機能と価格をきっちりとバランスさせて、口コミを見て、型落ちしたものや値引きされたものを買う。モノがなかった昔のように、商品が消費者に強烈なインパクトを与えられてないからではないか、という説ももちろんわかる。分かるのだけれど、消費があまりにも合理的になりすぎてしまっているのかなぁという気がするわけです、感覚的に。
iPhoneのように革新的でデザインも秀逸で、というものがぽこぽこ作れるのであれば何も言わないけれど、そうでない以上、そこそこの商品・サービスでもお金を気持ちよく使ってもらうために何ができるのか、ということ考えてもいいような。似たようなことは、たとえばコーズマーケティング的なことであったり、社会貢献のための消費みたいな文脈には生じていることなのかもしれないけれど、正直あまり機能していないように思う。自分もReady for?やらでたまにお金入れますけれど、そこにのめりこんでいる自分はいない。それは、まだそういう消費が大きな文化になっていないからなのではないか。そう思うわけです。もしかしたら単純に買われる商品として満たすべき最低限のラインを超えていないだけなのかもしれないけれど・・・。
消費する欲を刺激する、消費する文化を作る、そういうことを広告の人たちはやっているのでしょうか、全然知らないけど。それが広告・マーケティングじゃボケって言われそうだから、あれですけど。
AIDMAを考えていても意味はない。AIDMとAの間には大きな壁がある。
消費文化の縮小とは別に、もう一つ大きな潮流があると思っている。めんどくさがり屋消費者の台頭だ。ぼくもまさにその一人なのだけれど、買いに行くのが面倒だと思っている人々。欲しいなぁと思ってもほしいなぁと言っているだけで買わない人々。その買わないというのは高いからとかそういうことではなくて、今目の前で売られたら買うと思うけど、実際はお店に行かないといけないし買わない、みたいな人々。もしかしてぼくだけかもと書きながら思い始めたけど、潮流だと感覚的に思っている、ということで話を進めることにする(え)。もうちょっとめんどくさがり屋消費者をクリアにすると、こんな感じ。よくある調査項目で「○○を買いたいと思うか?」「はい/いいえ、半年以内/1年以内/いつか買いたい/予定はない、・・・」というような質問で「買う」と回答した人、「半年/1年以内に」と回答した人、対象としている商品にもよるのでここの定義は曖昧だけど、こういう購買意向のある人たちで実際にその商品を購入した人の数が減ってきているのではないか。その減っている人たちがめんどくさがり屋消費者。(購入人数)/(購入意向あり人数)の比率が昔より減っているのではないか、そういう仮説。
めんどくさがり屋消費者が引き起こす問題は何か。ポイントは、マーケティングの有名なフレームワークのAIDMAがうまくいかなくなっているのでは?ということだ。これは、SNS時代になってAISASになっているんだなんだのという枝葉末節の話ではない。どういうことか。
昔(まだ情報がpushされてこない時代)は、消費者は一度広告で認知して興味を持った商品があったら、自分で商品情報を集めなければならなかっただろう。自分で調べながら、AwarenessがInterestに変わり、InterestがDesireに変わり、記憶し、そしてActionにつながっていった。これは、AIDMAの流れの中で消費者はその商品にコミットしていった、ということだ。自分の時間を使って、その商品にのめりこんでいったわけである。そのフローがAIDMAだった。
でも今の時代は違う。AIDMAのうちのAIDMまでは一切コミットせずに達成されてしまうのだ。それはなぜか、断片的な何となくその商品を理解できるような情報が勝手にPushされてくるからであり、消費する情報・コンテンツが増えてきたことによって、知らない商品・興味のある商品をより調べるための可処分時間が減ってきているからである。たとえば、ぼくはJINS PCがほしいと思っている。それはどんな商品かを理解していて、効果があるとも聞いていてるからだ。AIDMまでは達成している。しかしながら、一度もJIN PCをネットで調べたことはないし、店頭に行ったこともない。何もしなくても情報が入ってくるのである。ぼくは一切JINS PCにコミットしていない。おまけに現代は楽しいことがいっぱいある。家に帰って楽しめる娯楽もたくさんある。でもJINS PCを変える店舗は遠い。このコミットメントの差と現代の環境がぼくを購買から遠ざけているのだと思う。ちなみに僕自身は消費するタイプの人間である。なぜなら貯金はほとんどないし、Tシャツ屋さんに一度行けば、一度に7枚も買ってしまうような消費バカだからである。だからお金をケチってJINS PCを買っていないわけではない。買いに行くのが面倒なのである。
話をAIDMAに戻そう。ポイントはAIDMAというフローの順番が間違っていたとか、そういうことではない。昔はAIDMAのステップによって消費者と商品のつながりが生まれていたが、今はそのつながりが生まれにくい環境になっていて、そのつながりこそが購買に結び付けるものだったのではないか、ということだ。AIDMAに合わせてMECEに施策を考えても、結局それらが消費者からのコミットを誘引できない限り、最後のAにたどり着かせることはできないのではないかと思うわけである。
めんどくさがり屋の消費者に迎合して、AIDAモデルを推進する
そのためにはお店をお客に近づける方法と、お客をお店に近づける方法がある。最後のAに到達させるためにお店を近づけることに特化した戦略がある。それがECサイトやデジタルコンテンツビジネスだ。この市場は人間の面倒くい症候群によってここまで大きくなったと思う。たとえば、ぼくは映画が好きで、気になった映画は専用アプリでクリップしたりして忘れないようにしている。いつか観ようと思って。では実際に観ているかというと、答はNOだ。映画を観ていないのか?そうではない。Huluで毎週のように観ている。でも観ているのは前から気になっていた作品ではなく、Huluにホームに表示されている作品だ。なぜなら面倒くさいから。観たいと思っていた映画を、アプリを開いて思い出して、それを検索してあるかどうか確認する、このステップをやることだけで面倒くさいのだ。これを改善するためにはどうしたらよいのか?それはAIDMAのプロセスを一気通貫統合することだと思う。たとえばこうだ。映画をクリップするアプリで、気になった映画をタップすると、家のテレビにそのコンテンツを送ることができて、家に帰ったら自動でテレビの電源が入って、その映画の上映が始まる。または、お気に入りした映画が、Huluを開くと同時にポップアップされる。『先週あなたがクリップした映画はこちらです。』みたいな感じで。
他のアイデアを言えばこうだ。行きたいなと思ったレストランを登録する。いつもよりも早めに仕事が終わって渋谷駅を通ると、「今日はいつもより帰ってくるのが早いですね。ちょうど渋谷にはこの前お気に入りしていた○○というお店がありますよ、行きませんか?」とPUSH通知が来る。
どうだろう。これは一気通貫のAIDMAモデルというよりも、『AIDMAをAIDAにする』ということかもしれない。つまりMemoryのMをユーザーにさせることのないシームレスでストレスレスな購買行動ステップを作ってあげる、ということだ。これだけの情報があって、これだけの娯楽があって、忙しい日も多くて、そんな現代の面倒くさがりで情報過多な世界に生きてる消費者に消費させるためには、これくらいの便利さ、AIDMAを一気通貫させ、『Mの必要性を排除したAIDA』まで進化させるモデルが必要が必要だと思うのだ。今のレコメンドは中途半端。もっと時間とか普段の生活とかまで取り入れた上でのレコメンドをしてくれないと。購買のタッチポイントが生活圏外なんだよね。商品にコミットメントしない現代において、まず購買場所を生活圏内にいれる必要があると思うわけ。もうここまでくるとAIの世界かもしれないけれど。
めんどくさがり屋の消費者を刺激して、お店に来きたくなるような購買体験を提供する
次に、最後のAに到達させるもう一つの方法である、お客をお店に近づける方法について考えたい。ぼくは、上記のようなお店をお客に近づけるのには限界があると思っている。たとえば、なかなか普及していないネットスーパー。色々めんどくさいから買わないという話もあるが、「なんだかんだお店に行きたいし/行くから利用しない」という消費者が多いとも聞く。そう考えると、「消費者がお店に行って買い物をする」という買い物行為が持っている力を信じたくならないだろうか。ぼくはなる。なので、『買い物に行くことをどうやって面倒くさい体験ではなく楽しい体験に変えることができるか』が肝だと思っている。アイデアとして、可愛い女の子と買い物に行けるサービスはどうだろう。お店に可愛い店員さんがいるくらいではいかないけれど、実際に買い物デートができるなら買い物に行きたいと思ったりしないだろうか?半分冗談だが、いいたいことはこんな感じで、買い物自体を楽しくする、買い物という行為を日頃の娯楽のチョイスに組み込む、そういうこと。もしかしたら買い物を娯楽に組み込むというのは、消費の文化と近い話なのかもしれないが。