2014年12月31日水曜日

2014年読んで面白かった本10冊

ブクログを振り返ってみると今年は約25冊本を読んでいました。1ヶ月に2冊、毎年もっと読みたいとは思うものの、結局これくらいのペースに落ち着くようです。読む人は本当にたくさん読みますよね、単純に尊敬します。

以下、その中の読んでよかった本10選をまとめました。全部で25冊しか読んでいないので、読んだ本のうちの半分がリストアップされることになるというあまりイケてない感じですがご勘弁を。

年始に読んだ本はどうしても印象が薄まってしまうのですが、ここに挙げた中でさらにお薦めを選ぶとするなら、山本七平の「日本人とは何か」、ジョセフ・ヒースの「反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」になります。
特にコメントなども入れていません。タイトルを見て惹かれるなというものがありましたら是非手に取ってみてください。
やっぱりコメント入れました。タイトルだけでは何の本かもわかりませんし。

著者の佐伯先生の本はどれも比較的読みやすいので、小難しいことを平易な説明から理解したいという方にはお勧めです。本著では歴史的な思想の変化を追うこと、なぜ人を殺してはいけないのか、援助交際は許される行為か否か、といった現代風なトピックに対して考察することを通して自由とは何か考察する取っ掛かりをくれる本です。バーリン、ウィトゲンシュタインあたりの積極的自由・消極的自由という考え方は、この本を呼んでいた年始当時のぼくにとっては非常にタイムリーな考え方で印象に残っています。

社会主義国家、共産主義国家の風刺小説として有名な本です。著者のジョージ・オーウェルの書いた1984年は、村上春樹の1Q84などでも出てきますね。スターリン、トロツキーなどの時代の様子を農場をネタにしてストーリー仕立てにしています。この本も取っ掛かりとして非常に優良な本です。


1900年代、発展途上国に何が起きたのかについて説明してくれる本。食糧危機がいかにして起こったのか、なぜアフリカの国々は1900年代に成長せず、むしろ色々なインデクッスが悪化したのか、その理由が分かります。ショッキングだった大賞を選ぶならこの本でしょうか。

過去に実在した独裁者たちを例に取り、権力が権力たる所以とその仕組を教えてくれます。巨大な組織がどのように機能していくのか、上の人たちが何を考えているのか、国単位の思考でなくても生かせるエッセンスが詰まっています。

上でご紹介したスーザン・ジョージの本に負けず劣らずショッキングだった本。アメリカを嫌いになれる本です(笑) こちらも1900年代に何が起こったのか、世界銀行が何をしてきたのか、議事録なども引っ張り出してくる良著です。「なぜ世界の半分が飢えるのか」や「独裁者のためハンドブック」と重なる内容なので、興味のある方はこの3冊をまとめ読みしてもいいかもしれません。

非常に長い本ですけれども、日本の歴史が詰まった名著中の名著です。エッセンスが詰まりすぎて、正直1回だけでは絶対追いつけないです。まだぼくは1回しか読めていないので、いつ2週目を読もうかと考えておりますが、1週だけでも日本がどういう国だったのか、どういう人たちが、どんなことをしてきた結果として、今の日本があるのかとても勉強になります。

フランス旅行中に読破した本。キャラクターベースでフランス革命を追っていく新書です。キャラクター視点で描いてくれているので、下手に概説しようとする本よりも分かりやすいのと思います。ぼくは本著を読んでロビエスピエールという人物にとても惚れました。血の多く流れたフランス革命時代先頭を走っていた人たちは30歳前後が多いのですけど、そういう意味でも感慨深い本でした。

雑学本程度にさらっと読める本です。ですがぼくのように経済学門外漢の方が疑問に思っているようなことをうまく取り上げて話をしてくれています。普段経済のことよくわからないなと思っている人には是非お勧めしたいですね。

何かしらの左翼的な活動をしている人、していた経験のある人にとっては非常に面白い本だと思います。いつどんな時代であってもカウンターカルチャーというものは生まれるけれども、それが結局どういうわけか消費の対象として経済に組み込まれ、無力化されていく、そういう実在した現象を一つ一つ例に取りながら、この世の中を社会的意義深い方向に変えていくというのはどういうことか教えてくれます。

反逆の神話の中でレファレンスとして登場していた本。実はわたしは日本語版ではなく英語の原本を読みました。なぜならKindleで1円、ネット上では無料で公開されているからです(笑)こちらも動物農場に近しい、社会主義・独裁をテーマにしたSF小説です。人間とはどんな動物なのか、考えさせられる皮肉な展開にハッとさせられる本です。

2014年12月27日土曜日

身に付けるべきスキルとキャリア

たくさんの募集がある能力を身につけても、その能力を手に入れて自分自身で活かしていく方法を知っているケースを除いて、意味がない。そういう能力を身に付けることで傭兵になることはできるが、年齢相応のお賃金をもらうため(上のポジションに行く)にはそういう人たちを「使う」能力が必要で、「使う」ことが出来る能力と傭兵の能力には関係する部分はあるだろうが相関はない。年が上がるに連れてマネジメントを意識しながらキャリアを描くべし。

どの業界も新しい技術が出て、それに伴い新しいことを扱える必要性は常につきまとう。そのような新しいことが出来ることで「使われる」側にいても高給をもらうこともあるだろう。が、そういう新しい能力が汎用的に(募集の多い能力)になった時点で価値はない。

そういう「使われる」能力を磨いて高給をもらいたいなら、汎用的な能力になる前に役に立つレベルにあげる、または、汎用的にはなってもごく限られた人しか到達していないレベルに到達する、または、その能力と掛け合わせることで一気に該当人材が減るような他の能力を持っている、の3択のいずれかが叶えられる場合を除いて、これからは○○の時代というワードに騙されるべきではない。

労働人材市場ですべきことは、自分の年齢に有った能力(マネジメントすなはち「使う」能力)と、供給の少ない能力の組み合わせを持つこと。需要の大きさ(募集の多さ)を見ようとするとどツボにハマる。

需要が「小さく」ても、需要の「強さ」がある職能というのが世の中には存在していて、これは絶対になくならない。たとえば、上に上がるということはそういうことだ。マネジメントはたくさんいらない(需要は小さい)が、必ず必要(需要は強い)なのだ。

目に見えるものと見えないもの

当たり前だけど、世の中には目に見えるものと見えないものがある。これには、物理的に見える見えないだけではなく、自分のいる場所からはたまたま見えない、自分のいる時間にはたまたま見えないなど、物理的に見えるけれどもその他の制約によって見えないということも含まれる。

自分の見ている世界、自分から見えている世界のことをどう認識するか、というのは日々の感じ方にとても影響を与えることだ。自分が他人との共同生活をするようになってから経験して理解したことで、意外と出来ていない人(特に若い人)がいるのが、自分が見ていないことと、そのことが存在していないということはイコールではないということである。この感覚が特に重要なのは人とのコミュニケーションにおいてだ。
 
人とのコミュニケーションにおいて相手を尊重するということは非常に重要で、相手のことを理解し、「こういうことをしてくれていることを私は知っているし有り難く思っている」 と伝えることで、相手は心を開いてくれるものだ。しかし、目に見えているものしか存在していないと考えてしまっている人は、この相手のことを尊重することが出来ない。大抵のこういう「してあげる」「してくれる」と表現されることは、秘密裏に当人の知らない所で行われていたりするし、様々な制約の問題で中々公開できないなども間々ある話。そういうことの経験値がなかったり、想像力に欠けたりしているために、相手が自分の知らないところで自分に対して提供してくれていることがあることに気づけない。特に、本人がその相手に提供していることがある、と思っている状況だとこの想像力は大きく損なわれがちである。
 
この考え方が大事になってくるのは、何かを進言したいとき、苦言を呈したいというとき。変更を求める行為を波風立てずうまく実行するには、まず相手のことを理解することが不可欠だ。「自分はこうしているのにお前はやっていない」というような発話を、相手は本当は何かやっているのに気づかずにしてしまった場合、相当の墓穴を掘ることになるので気をつけた方が良いだろう。
 
見えないことにも配慮せよという教訓がありつつも、一般的なコミュニケーションにおける鉄則として、相手に伝わらなかったら伝えられなかった発信者が悪いのであって、受信者の問題ではない、というのもよく言われることだから、多少混乱することもあるかもしれない。まぁいつでも相手に責任があるのではなく、自分に責任があると考える方が、相手に対する怒りなども生じないし、その状況を解決するアクションを自分で取れるので生産的である、ということでしかないけれど。
 
 
少し話題は例えは変わる。
電車の宣伝で、荷物を持ってる人、妊婦の人には席を譲りましょう動画が流れていた。ふと思ったのは、そういう目に見えるものだけを頼りに判断することの流布は危険な側面もあるのではないかということ。例えば、例えば24時間ずっと立ちっぱなしで疲れてるサラリーマンがいたとして、そこからその人は1時間電車に乗らなければいけないときに、目の前に妊婦が乗ってきたら、譲るべきなのか。譲ってないと白い目で見られなければならないのか。その妊婦が実は一駅しか乗らなくて、その席を譲った結果その席に座れなかったりしたら、そのサラリーマン辛い気がする。世の中には目に見えないことの方が多いわけで、目に見えてることを基準に判断することを強要すると、目に見えないことを過小評価したり、目に見えないことを基準に動いてる人のことをおかしな目で見たり、そういう安直な世界になってしまわないかという一抹の不安も感じていたりする今日この頃である。