2014年12月27日土曜日

目に見えるものと見えないもの

当たり前だけど、世の中には目に見えるものと見えないものがある。これには、物理的に見える見えないだけではなく、自分のいる場所からはたまたま見えない、自分のいる時間にはたまたま見えないなど、物理的に見えるけれどもその他の制約によって見えないということも含まれる。

自分の見ている世界、自分から見えている世界のことをどう認識するか、というのは日々の感じ方にとても影響を与えることだ。自分が他人との共同生活をするようになってから経験して理解したことで、意外と出来ていない人(特に若い人)がいるのが、自分が見ていないことと、そのことが存在していないということはイコールではないということである。この感覚が特に重要なのは人とのコミュニケーションにおいてだ。
 
人とのコミュニケーションにおいて相手を尊重するということは非常に重要で、相手のことを理解し、「こういうことをしてくれていることを私は知っているし有り難く思っている」 と伝えることで、相手は心を開いてくれるものだ。しかし、目に見えているものしか存在していないと考えてしまっている人は、この相手のことを尊重することが出来ない。大抵のこういう「してあげる」「してくれる」と表現されることは、秘密裏に当人の知らない所で行われていたりするし、様々な制約の問題で中々公開できないなども間々ある話。そういうことの経験値がなかったり、想像力に欠けたりしているために、相手が自分の知らないところで自分に対して提供してくれていることがあることに気づけない。特に、本人がその相手に提供していることがある、と思っている状況だとこの想像力は大きく損なわれがちである。
 
この考え方が大事になってくるのは、何かを進言したいとき、苦言を呈したいというとき。変更を求める行為を波風立てずうまく実行するには、まず相手のことを理解することが不可欠だ。「自分はこうしているのにお前はやっていない」というような発話を、相手は本当は何かやっているのに気づかずにしてしまった場合、相当の墓穴を掘ることになるので気をつけた方が良いだろう。
 
見えないことにも配慮せよという教訓がありつつも、一般的なコミュニケーションにおける鉄則として、相手に伝わらなかったら伝えられなかった発信者が悪いのであって、受信者の問題ではない、というのもよく言われることだから、多少混乱することもあるかもしれない。まぁいつでも相手に責任があるのではなく、自分に責任があると考える方が、相手に対する怒りなども生じないし、その状況を解決するアクションを自分で取れるので生産的である、ということでしかないけれど。
 
 
少し話題は例えは変わる。
電車の宣伝で、荷物を持ってる人、妊婦の人には席を譲りましょう動画が流れていた。ふと思ったのは、そういう目に見えるものだけを頼りに判断することの流布は危険な側面もあるのではないかということ。例えば、例えば24時間ずっと立ちっぱなしで疲れてるサラリーマンがいたとして、そこからその人は1時間電車に乗らなければいけないときに、目の前に妊婦が乗ってきたら、譲るべきなのか。譲ってないと白い目で見られなければならないのか。その妊婦が実は一駅しか乗らなくて、その席を譲った結果その席に座れなかったりしたら、そのサラリーマン辛い気がする。世の中には目に見えないことの方が多いわけで、目に見えてることを基準に判断することを強要すると、目に見えないことを過小評価したり、目に見えないことを基準に動いてる人のことをおかしな目で見たり、そういう安直な世界になってしまわないかという一抹の不安も感じていたりする今日この頃である。

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