2013年12月14日土曜日

だますだまされるの関係性が存在する中での政治的言動が怖い(特定秘密保護 法 案への過激な言動を見て)


BLOGOSに掲載されていた記事朝日新聞の特定秘密保護法案への反対報道に思うにて引用されていた戦争責任者の問題-伊丹万作がとても心に響いたので、ひとまず引用して残しつつ、自分の感じたことを書く。

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。

ここでいうだますだまされるという関係性が成り立つのは、正解のわからない未来のことについて論じているからだ。その過程では、結果的にだましてしまった人たちはだます気持ちなんてサラサラなかっただろうし、結果的にだまされたことになった人もだまされたとは思っていないはずで、つまり自分の意思とは関係なく相手をだまし、対象の置かれる状況が悪化することに積極的に加担してしまう可能性があるということだ。このだますだまされるという関係性から解放されるために必要なことは、知識の不足を正すほかないと思うが、ここで問題なのは、自分が知識不足を補い強い意志を持ったとしても、他人が変わらなければ、結局だますだまされるという関係性は自分とその相手の間でも、その相手とまた他の誰かとの間でも、依然として存在し続ける。つまり、この関係性は一生なくならないということだ。

質が悪いのは、これらのようなだますだまされる関係性が顕在化するのは、往々にして政治のような国の進退に関わる非常に大きな問題について意見を持たなければならないときで、自国を貶めようなどと思っている国民が一人もいない以上、気持ちとしては事態を良い方向に持って行こうと皆が思っていることだ。未来のことだから絶対はありえない。でも国を良くしたいという気持ちは皆変わらない。その目的を達成するために選ぶべきと考える手段が違う。どうしようもない溝である。ここに戦争だの原発だのと悪の権化のような事象が関わってくるともう手のつけようがない。伊丹さんの挙げた言葉を使ってまとめるなら、みんな国を良くしたいという意志はある。にもかかわらず知識が追いついておらずえらいことになりかねない、というのが現状なのだと思う。

今回の特定秘密保護法案に限らず、最近は政治的なイベント前後にはFacebookでたくさんの賛同を求めるコメントや過激なコメントがシェアされてくる。署名だの、デモだの。そういう色々な人の意志がリアルな関係性をベースにしたFacebookでばら撒かれる。伊丹さんの仰っている通りだ。だますだまされる関係性は身近なところから作られていく。Twitterなどの匿名な場所でばら撒くよりも、リアルな関係性の中に意志を持ち込むことの方がよっぽど強力だ。

皆法案に全部目を通したのだろうか?ちゃんと理解できているのであろうか?わたしはきっとNOだと思うし、もし仮にYESだったとしても、自分が理解できていない以上積極的に彼らの意志に賛同することはできない。だからと言って、わたしのようなどっちつかずな状況は賞賛されるべきものではない。今のわたし状態は、理由こそ違えど伊丹さんが戦争に関係のある映画を書いていない状況と似ている。伊丹さんは積極的に戦争に関わろうとしていたという意味で本質的にはだます側だったのかもしれず、わたしは自分の意志を発信していないので誰もだましてはいないが、もし今回の件で国の状態が悪化することになったとしたら、わたしも消極的にではあるが悪化に加担したことに変わりはない。

政治に関わるということ、国の将来に責任を持つということは、本当に怖いことだ。国民同士が勝手にだましてだまされて、そうやって未来が決まっていく。わたしが何より怖いのは、戦争だの原発だのセンシティブな課題になればなるほど、皆が感情的になることだ。彼らなりの大義をなすという意志のもと、多くの知識のない人が扇動され、だまし合いが始まっていく。そこでは差別も起きるだろうし、暴力も起きるだろう。プロバガンダなどが批判されるが、メディアが何と言ってようと、個人がだまされない意志と知識があれば問題にはならない。そうやって自分以外の誰かに責任を押し付けるような姿勢では、国は良くなっていかないだろう。と言いつつ、勉強すべきことが多すぎてどうすればよいか皆目検討もつかないのだが。

What You'll Wish You'd Known

先日What You'll Wish You'd Knownというものを見つけた。下記はそこに書いてあること。
ひとつ、これを読んでいるあなた、そうあなた。あなたに訊きたい。
今のままの生活を続けていて、あなたはいったい何になれると思っているんですか?
ある日、突然、何もかも改善して、素晴らしい生活が降ってくるとでも思ってるんですか?
そんなこと今までありましたか?
昨日と、一昨日と、さして変わらない今日が、また明日も続いていくんじゃないですか?

だとしたら、あなたは今、何をすべきなんですか?
何もしないんですか?
そのまま、明日も明後日もそのままで、そのまま死んでいく。
それでいいんですね?
本当にそれでいいんですね?
そうなりますよ?
間違いなくそうなりますよ?
だって、昨日までそうだったでしょう?
何もしなかったから、昨日も一昨日も、ずっと何もなかったんでしょう?
そのまま死んでいく。何も変わらず、何もできず。
今のあなたの未来はそれだ。
あなただって本当はわかっているはずだ。
何もしなければ、きっと、何も変わらない。その可能性がすごく高い。わかっているはず。

本当に大切なものでないなら、そんなものにあなたの時間を使うのはお止めなさい。

あなたの人生はもう、だいぶん、過ぎてしまったのだから。


こういう詩を見てもショックが受けない自分がいることを嬉しく思う。それだけ自分の生活は変わっているし、新しい世界を知ることができているし、まだゴールまでは遠くても少しずつ前に進んでいることが実感できるからだ。この詩には大丈夫だよ~とアンサーしつつ、この詩の主旨に賛同しかねる部分がある。それは何かになりたいと思っていきる人生はきっとつらいということだ。何かになることを最大の目的にしてしまったら、きっと死ぬ間際に後悔する。明日死んでしまったとしてもわたしは大丈夫。未来を目的に生きているわけではないから。死んでも後悔しない生き方というのは、私にとって何に時間を使っているかが問題ではなく、自分を納得させられるかどうかでしかない。幸せは、自分を受け入れられるかどうかだ。

2013年11月3日日曜日

アナログとデジタル、有機物と人工物の間で、ギミックを志向しないデザインが 転換を生む。


デザイナーでもないのにデザインにかぶれているメガネです。

さて、会社でもデザインについての雑談を多くするようになりました。今までは見ても手に取りもしなかったAXIS(職場に届く)も、佐藤オオキさんが表紙の2013年9月号くらいから行ったり来たり読んでみたりし始めました。花展に行ってみたり、東京デザイナーズウィークに行ってみたりしました。自分の身の回りのプロダクトが「なぜこのデザインなのだろう?」とふと考えるようになったりました。

さて、そんな中で先輩よりおすすめされたのが山中俊治さんのブログ。いくつかピックしてもらったのですが、中でも私は下記が好きです。山中さんがデザインされている義足を例に、デザインに対する考え方をお書きになっています。

「失われたものの補完を超えて」-山中俊治の「デザインの骨格」
http://lleedd.com/blog/2011/11/14/new_prosthetic_leg/

今、私たちは、違う道を模索しています。見てもわかる通り、本物の足にはまったく似ていません。人工素材で作られる機能的な人体としての、人工的な美しさを目指しました。一方、左右のバランスをとるためにシルエットとしては人体を引用しています。人の体にはリズミカルな「反り」があるので、カーブしたパイプを使っています。ふくらはぎの部分の白い着脱式アタッチメントは、パンツをはいたときに足の形を自然に見せるためのパッドのようなもので、これも運動機能には全く寄与しないのですが、足の形をきれいに見せるための重要なパーツです。

義足のデザインは、金属そのままの義足と、人間の足に似せたコスメチック義足というものがあるそうです。失くした足の替りということでコスメチック義足が生まれたそうなのですが、結局金属のものを装着している人も多いのだとか。そんな中で、山中さんがデザインされている義足は人工感丸出しの方向性を目指しているわけですね。

私はこれ、今までも起きて来ていることだと思っているんです。完全なる置換によって時代は作られていない。新しい技術が普及するのは、表面的なギミックに惑わされないデザインが施されたときだと感じています。

たとえば、文字入力を考えてみます。はるか昔、文字入力のインターフェイスは様々でした。粘土板、パピルス、羊皮紙、貝多羅葉、木簡・竹簡、絹帛。そして、唐の時代に中国で紙の原型となるものが発明され、各国に伝播・普及・改良が進んでいきました。そして現在、コンピューターが普及し、ポケベル、PHSが普及して廃れ、携帯電話が普及し、スマートフォンが全盛期を迎えています。紙が生まれるまでの製品の進歩は、文字を書く人の行動に非常に忠実であったでしょうから、そこまで開発中に摩擦もなかったと思います。常に書くもの(something to write with)と書かれるもの(something to write on)という関係性や、書くものを手に握って動かして文字を書くという行動にも、変化が要求されなかったからです。しかし、紙というアナログインターフェイスからデジタルインターフェイスに変わる間には大きな壁があったはずです。(技術的な問題の勘案も含めてだとは思いますが)アナログからデジタルに変わった一番初めのデバイスも、現在デジタル文字入力として世に普及している方式も、書くものを使って書かれるものに文字を書く、という行為とは、似ても似つかないからです。それでも、普及したんですよね、デジタルインターフェイスは。そしてデジタルが到来してしばらく経ち、ようやく、デジタル入力にも書くものと書かれるものの関係性が専門的な人たちの間(マンガ家など)で復活し始め、今日ではスタイラスなども一般化し、使う人も少しずつ増えています。

文字入力は書くもので書かれるものに文字を書くという行動様式を真似ること、紙というアナログのインターフェイスに似せたCMFにすることを追求した結果、デジタルでの文字入力が普及したわけではないのです。たとえ今までの様式と異なっていたとしても、その行為を取り巻く環境では不可能であったことで、人々が潜在的にウォンツとして持っていたことを実現し、その行為の本質をしっかりとらえていたからこそ、デジタル文字入力は普及していったと思うのです。

もし、文字入力は書くものと書かれるものという関係性によって成り立つべきだ、と当時の人が考えてしまっていたら、携帯端末での文字入力は生まれていなかったかもしれません。その行動様式は表面的なものであって文字入力の本質では少なくともなかったと私は思いますし、その表面的な様式を完全に置換する技術も当時なかったわけです。

これからも、どんどんアナログがデジタルに置き換わり、有機物が人工物に置き換わっていくと思います。もちろんアナログや有機物であるからこその良さを大切にしていく気持ちは大事だと思いますし、そういう方向性を志向する人はいると思います。ですが規模の経済という点でも、時代時代によってトレンドになるものはあると思いますし、それはますますデジタルとアナログ、有機と無機の融合による産物だと思います。世の企業もそうやってお金を儲けたいと思っているでしょう。そのトレンドにあってもまだアナログなもの、昔と形を変えないものがあるとしたら、それはまだデジタルが表面的な様式にこだわりすぎたギミックであって、本質を突いていないのだと思います(一度転換したあとには、技術も発展し行動様式もそのままにした置換が起きるかもしれませんが)。

その本質を見つけて突くというのが最大の難関なわけですが、少なくとも、表面的なものに惑わされないようにというスタンスを持つことは努力次第でできます。その意識を自分で持ち、周りの人たちに伝えていくことで、ギミックを志向しない空気を作っていくことが重要ではないかと思います。
とは言いつつも、義足の本質について自分でも整理したいところですね(インタビューしたい)。

最後に、、、山中さんのデザインされている義足、かっこいい。

2013年10月21日月曜日

消費に関する3つの思考:消費文化を再構築する、面倒くさがり消費者に迎合す る、面倒くさがり消費者を刺激する

ここしばらく商品・サービスを作る側の視点に立っていたのですが、消費する側のことをもっと考えないといけないなと思うことが最近続いている。それに伴い消費について、3つのことを考えた。(広告系の人からすると、当たり前のことを書いてるだけかもしれないし、ちんぷんかんぷんなことを書いてるかもしれない。)

合理的非消費者を消費者に変えて、消費文化を再構築する

消費全体のマクロトレンドがどうなっているのか、ぼくはよくわからない。内閣府の実施している消費動向調査を時系列でみる限りでは、消費者の意識としてはこの25年の間で下がって少しずつ回復しているという状況のようだ。これは意識の問題であって、どのくらいのお金が使われているかを示すものではないけれど。


特定の商品で見てくと、新聞が売れない、雑誌が売れない、車が売れない、ビールが売れない、テレビが売れない、、、。売れない話はたくさんある。買い控えが膨大に起きているのであればGDPも減る気がする。ということはどこか別の場所でお金が使われているのだろう。ただ、総体としてお金が使われていようが、自分の売りたいものが売れないと意味がないのが企業だと思うし、巷に多く溢れかえっている社会起業的な組織による事業も、B2Cの部分で買ってもらわないと成り立たないものもたくさんある。

いい商品がなくなったのか?高性能なものがいい商品なのであればその答えはNOであるし、消費者のニーズをとらえた商品がいい商品なのであれば、その答えはYESかもしれない。消費者の求めているものを特定するために、大企業はリサーチにお金をかける。

では、消費者のニーズがとらえにくくなったのはなぜなのだろうか。モノを作れば売れる時代にあって、モノを作っても売れない時代にないものは何だろうか。それは"消費の文化"のようなものなのではないか、そんなことを思うようになっている。

最近よく見かける地方や地元の職人を守る、伝統工芸品をおしゃれにデザインする、などなどをコンセプトにした事業がある。買い手がいないから廃れているのだけど、なぜ買い手がいなくなったのだろうか。先日とあるデザイナーさんから小耳にはさんだ話によると、どうやら昔は人生のライフステージおいて、「○○のときは××を買う」という習慣、文化があったということだった。職人さんの作る製品はべら棒に高い。今世に出ている商品の性能・価格と天秤にかけてしまったら負けるも同然である。でも昔はそれを買う文化があったと言うのである。おもしろいなと思った。

先々日、東北の復興に関わる先輩は「最近消費に興味があるんだよね」と言っていた。曰く、「ギャルとかヤンキーとか、バカみたいにお金を使っちゃう人たちをさ、ぼくらは尊敬しなきゃいけないと思うだよね(意訳)」ということらしい。ギャルやヤンキーが本当にお金をバカバカ使っているかはともかくとして、何となく言わんとしていることはわかる気がする。ちょっと前に大黒埠頭にドライブに行ったとき、20代のヒップホップダンスやってますイエェーイみたいなお兄さんたちが、トランク部分にキラキラ光るスピーカーを埋め込んだミニバンを止めて、大音量で音楽を流しながら楽しそうにしゃべっているのを見かけたりしたこともある。「大黒埠頭 車」で画像検索したらすぐに出てきたので載せておく。ここまで来ると、相当お金稼いでるからこんなことできるんじゃないか、という気もするけれど、地元にいるような土方のヤンキーほど車やバイクを改造するという話ともリンクする気がするので、実態は不明。

ここまで色々と回想してみて思うに、現代はもう情報が溢れすぎてしまって、合理的すぎる消費者ばかりになってしまったのだろう。機能と価格をきっちりとバランスさせて、口コミを見て、型落ちしたものや値引きされたものを買う。モノがなかった昔のように、商品が消費者に強烈なインパクトを与えられてないからではないか、という説ももちろんわかる。分かるのだけれど、消費があまりにも合理的になりすぎてしまっているのかなぁという気がするわけです、感覚的に。

iPhoneのように革新的でデザインも秀逸で、というものがぽこぽこ作れるのであれば何も言わないけれど、そうでない以上、そこそこの商品・サービスでもお金を気持ちよく使ってもらうために何ができるのか、ということ考えてもいいような。似たようなことは、たとえばコーズマーケティング的なことであったり、社会貢献のための消費みたいな文脈には生じていることなのかもしれないけれど、正直あまり機能していないように思う。自分もReady for?やらでたまにお金入れますけれど、そこにのめりこんでいる自分はいない。それは、まだそういう消費が大きな文化になっていないからなのではないか。そう思うわけです。もしかしたら単純に買われる商品として満たすべき最低限のラインを超えていないだけなのかもしれないけれど・・・。

消費する欲を刺激する、消費する文化を作る、そういうことを広告の人たちはやっているのでしょうか、全然知らないけど。それが広告・マーケティングじゃボケって言われそうだから、あれですけど。


AIDMAを考えていても意味はない。AIDMとAの間には大きな壁がある。

消費文化の縮小とは別に、もう一つ大きな潮流があると思っている。めんどくさがり屋消費者の台頭だ。ぼくもまさにその一人なのだけれど、買いに行くのが面倒だと思っている人々。欲しいなぁと思ってもほしいなぁと言っているだけで買わない人々。その買わないというのは高いからとかそういうことではなくて、今目の前で売られたら買うと思うけど、実際はお店に行かないといけないし買わない、みたいな人々。もしかしてぼくだけかもと書きながら思い始めたけど、潮流だと感覚的に思っている、ということで話を進めることにする(え)。

もうちょっとめんどくさがり屋消費者をクリアにすると、こんな感じ。よくある調査項目で「○○を買いたいと思うか?」「はい/いいえ、半年以内/1年以内/いつか買いたい/予定はない、・・・」というような質問で「買う」と回答した人、「半年/1年以内に」と回答した人、対象としている商品にもよるのでここの定義は曖昧だけど、こういう購買意向のある人たちで実際にその商品を購入した人の数が減ってきているのではないか。その減っている人たちがめんどくさがり屋消費者。(購入人数)/(購入意向あり人数)の比率が昔より減っているのではないか、そういう仮説。

めんどくさがり屋消費者が引き起こす問題は何か。ポイントは、マーケティングの有名なフレームワークのAIDMAがうまくいかなくなっているのでは?ということだ。これは、SNS時代になってAISASになっているんだなんだのという枝葉末節の話ではない。どういうことか。

昔(まだ情報がpushされてこない時代)は、消費者は一度広告で認知して興味を持った商品があったら、自分で商品情報を集めなければならなかっただろう。自分で調べながら、AwarenessがInterestに変わり、InterestがDesireに変わり、記憶し、そしてActionにつながっていった。これは、AIDMAの流れの中で消費者はその商品にコミットしていった、ということだ。自分の時間を使って、その商品にのめりこんでいったわけである。そのフローがAIDMAだった。

でも今の時代は違う。AIDMAのうちのAIDMまでは一切コミットせずに達成されてしまうのだ。それはなぜか、断片的な何となくその商品を理解できるような情報が勝手にPushされてくるからであり、消費する情報・コンテンツが増えてきたことによって、知らない商品・興味のある商品をより調べるための可処分時間が減ってきているからである。たとえば、ぼくはJINS PCがほしいと思っている。それはどんな商品かを理解していて、効果があるとも聞いていてるからだ。AIDMまでは達成している。しかしながら、一度もJIN PCをネットで調べたことはないし、店頭に行ったこともない。何もしなくても情報が入ってくるのである。ぼくは一切JINS PCにコミットしていない。おまけに現代は楽しいことがいっぱいある。家に帰って楽しめる娯楽もたくさんある。でもJINS PCを変える店舗は遠い。このコミットメントの差と現代の環境がぼくを購買から遠ざけているのだと思う。ちなみに僕自身は消費するタイプの人間である。なぜなら貯金はほとんどないし、Tシャツ屋さんに一度行けば、一度に7枚も買ってしまうような消費バカだからである。だからお金をケチってJINS PCを買っていないわけではない。買いに行くのが面倒なのである。

話をAIDMAに戻そう。ポイントはAIDMAというフローの順番が間違っていたとか、そういうことではない。昔はAIDMAのステップによって消費者と商品のつながりが生まれていたが、今はそのつながりが生まれにくい環境になっていて、そのつながりこそが購買に結び付けるものだったのではないか、ということだ。AIDMAに合わせてMECEに施策を考えても、結局それらが消費者からのコミットを誘引できない限り、最後のAにたどり着かせることはできないのではないかと思うわけである。

めんどくさがり屋の消費者に迎合して、AIDAモデルを推進する

そのためにはお店をお客に近づける方法と、お客をお店に近づける方法がある。最後のAに到達させるためにお店を近づけることに特化した戦略がある。それがECサイトやデジタルコンテンツビジネスだ。この市場は人間の面倒くい症候群によってここまで大きくなったと思う。たとえば、ぼくは映画が好きで、気になった映画は専用アプリでクリップしたりして忘れないようにしている。いつか観ようと思って。では実際に観ているかというと、答はNOだ。映画を観ていないのか?そうではない。Huluで毎週のように観ている。でも観ているのは前から気になっていた作品ではなく、Huluにホームに表示されている作品だ。なぜなら面倒くさいから。観たいと思っていた映画を、アプリを開いて思い出して、それを検索してあるかどうか確認する、このステップをやることだけで面倒くさいのだ。

これを改善するためにはどうしたらよいのか?それはAIDMAのプロセスを一気通貫統合することだと思う。たとえばこうだ。映画をクリップするアプリで、気になった映画をタップすると、家のテレビにそのコンテンツを送ることができて、家に帰ったら自動でテレビの電源が入って、その映画の上映が始まる。または、お気に入りした映画が、Huluを開くと同時にポップアップされる。『先週あなたがクリップした映画はこちらです。』みたいな感じで。

他のアイデアを言えばこうだ。行きたいなと思ったレストランを登録する。いつもよりも早めに仕事が終わって渋谷駅を通ると、「今日はいつもより帰ってくるのが早いですね。ちょうど渋谷にはこの前お気に入りしていた○○というお店がありますよ、行きませんか?」とPUSH通知が来る。

どうだろう。これは一気通貫のAIDMAモデルというよりも、『AIDMAをAIDAにする』ということかもしれない。つまりMemoryのMをユーザーにさせることのないシームレスでストレスレスな購買行動ステップを作ってあげる、ということだ。これだけの情報があって、これだけの娯楽があって、忙しい日も多くて、そんな現代の面倒くさがりで情報過多な世界に生きてる消費者に消費させるためには、これくらいの便利さ、AIDMAを一気通貫させ、『Mの必要性を排除したAIDA』まで進化させるモデルが必要が必要だと思うのだ。今のレコメンドは中途半端。もっと時間とか普段の生活とかまで取り入れた上でのレコメンドをしてくれないと。購買のタッチポイントが生活圏外なんだよね。商品にコミットメントしない現代において、まず購買場所を生活圏内にいれる必要があると思うわけ。もうここまでくるとAIの世界かもしれないけれど。

めんどくさがり屋の消費者を刺激して、お店に来きたくなるような購買体験を提供する

次に、最後のAに到達させるもう一つの方法である、お客をお店に近づける方法について考えたい。ぼくは、上記のようなお店をお客に近づけるのには限界があると思っている。たとえば、なかなか普及していないネットスーパー。色々めんどくさいから買わないという話もあるが、「なんだかんだお店に行きたいし/行くから利用しない」という消費者が多いとも聞く。そう考えると、「消費者がお店に行って買い物をする」という買い物行為が持っている力を信じたくならないだろうか。ぼくはなる。なので、『買い物に行くことをどうやって面倒くさい体験ではなく楽しい体験に変えることができるか』が肝だと思っている。

アイデアとして、可愛い女の子と買い物に行けるサービスはどうだろう。お店に可愛い店員さんがいるくらいではいかないけれど、実際に買い物デートができるなら買い物に行きたいと思ったりしないだろうか?半分冗談だが、いいたいことはこんな感じで、買い物自体を楽しくする、買い物という行為を日頃の娯楽のチョイスに組み込む、そういうこと。もしかしたら買い物を娯楽に組み込むというのは、消費の文化と近い話なのかもしれないが。


そんなことを考えた1日でした。


2013年10月13日日曜日

デザインはロジックである。

仕事柄デザイナーさんやデザインを学んでいた人と話をしたり指導してもらうことがあり、この1年はデザインについてよく考えるようになった。『デザインとは』などと言うと、既存のデザイン論について一通り触れた上で語らなければいけないような、そんな窮屈な感じもするけれど、今回はそうやって勉強したことではなく、自分が体験したことから考えたことをまとめたいと思う。

デザインをもたらすもの

ぼくが感じているのは『デザイン=ロジック』という式だ。ぼくがここで言うデザインには、機能的なデザインも意匠的デザインも含まれている。つまりアートというものを含めたデザインと定義しても、デザイン=ロジックだと思うのだ。なぜならデザインには必ずその目的があるはずだからだ。"この目的を達成するためにここはこうなっている"というのがデザインということ。このことを"デザイナーなりの意図・意味が含まれていて、筋が通っている"という点で、ロジックと表現しているのだけど、このロジックには2種類あって、その1種類がぼくら(少なくともぼく)を勘違いさせる(またはさせてきた)。だれでも思いつくロジックと、そうでないロジックである。

つまりこういうことだ。10人のデザイナーに、"こういう人に向けて、こういう商品/芸術作品を作りたい。デザイン案を10つ出してくれ”と依頼したとしよう。10人のデザイナーが”こういうことを伝えたい"と10人が10人同じことを思った、としてもよい。そうするとそれぞれのデザイナーの考えるデザインのうち半分程度は同じようなデザインとなり、残りの半分がほかデザイナーが考えなかったデザイン案になる。これがだれでも思いつくロジックとそうでないロジックによる結果である。では、だれでも思いつかないロジックとは何なのか。それが個々の価値観であったり、センスであったり、今までの経験であったりするのだと思っている。


良いデザインとは何か

デザインには必ずその目的がある。つまりデザインの必然性が存在するということだ。デザイナーは"ここがこうでなければならない理由"というものを積んでいくのである。しかしながら、すべてに必然性を見繕うことはとてもむずかしいし、基本的な考え方としてベストプラクティスがある部分以外のところは、個々のロジックによって決まっていく。個々のロジック、すなわち価値観・センス・経験というものによって、考えつくデザイン案が違う、もしくは同じデザイン案を一度は考えついたとしても、最終的に選ぶデザイン案が異なる、ということが発生する。この個々のロジックが、その時代時代の消費者に理解される、またはデザイナーであればいつの時代も理解され続ける、そういうデザインが良いデザインなのだと思う。

とあるファッションデザイナーさんとお話をしたときに、彼はこう言っていた。「デザインは哲学だ。哲学のないデザインはどんなに美しくても糞だ。」「デザインは美しくなければならない。どんなに哲学がこもったデザインでも、美しくなければ糞だ。」ここで言う"哲学"というのは、"デザインをする目的"だとぼくは理解している。だからデザイナーとして哲学は誰しもが持っていると思っている。ただ、"美しい"というものは、たとえ"美しいデザイン"を目指そうとしたところで、必ず美しくなるとは思えず、ここが個々のロジックに相当する部分であろう。


良いデザイナーになれるか

だから聞いてみた。どうやったら美しくデザインできるのですか、と。彼はこう言った。「たとえばあそこの灯りがあるだろ。あれを見て灯りがあるとしか思わない人と、綺麗な灯りだと思う人がいるんだ。そういうことだ。」「人は生きていれば色々なモノを見るだろ。自分が見てきたモノによって、デザインされる美しさは決まるんだよ。」なるほど、美しいモノをたくさん見て触れてきたかどうか、自分の日常生活の中で、小さなことでも美しいと感じられるだけの感受性があるかどうか、というところが美しいデザインが出来るか、より良いデザインができるかに繋がっていくのだろう。つまり、このファッションデザイナーさんが言うには、個々のロジックは後天的に磨くことができるということだ。一方で、デザイナーになりきれなかった(と言われている)人も周りにはチラホラいる。少なからずセンスのいる分野なのだろう、残念ながら。


デザインはロジックである、という考えから応用できること

今回のデザインはロジックである、という考えは、資料を一つ作るにしても非常に有用だ。なぜこのオブジェクトは丸ではなく四角なのか。なぜここは16ptなのにここは14ptなのか。なぜここの列だけ灰色になっているのか。なぜこの列を一番左にしたのか。こういうロジックを考えながら作られた資料と、そうでない資料は一目瞭然である。考えられた資料の方が当然読みやすいし、使いやすい。それができていないので、ぼくも毎日指摘される(これこの順番に意味ある?これこういう風に並んでる?など)。


その他にも応用先は無限大である。というか、最近は何でも"○○デザイン"と言われることからも分かるように、デザイン活動というのはこの世の中のほぼすべての活動のことを指していると言っても過言ではないと思う。いきなりそんな壮大なことを言うのは避けて先ほどの資料作成に近しい話からすると、例えばユーザビリティであったり、生産管理であったり、店舗改善であったり、というところは人間工学視点でかなり共通するスキルが求められると思われる。人間の目線や認知という問題を主に扱うからだ。そこから広げてしまえば、すべてのプロダクト・サービス開発はつまりプロダクトデザインであり、サービスデザインであって、デザイン活動なので、必然性を積み上げていく活動に他ならないわけである。




そんなわけで、デザインというのは非常に頭を酷使する活動であり、考えに考えつくされた理路整然とした感じが堪らなくカッコイイな、と日々思っているわけでありまして、デザインの起源、アールデコ、アールヌーヴォ、バウハウス、そこら辺のことを調べるようになり、ますますデザインというものに魅了されているのでした。デザイナーさんはカッコイイなぁ。

2013年8月6日火曜日

"好きなこと"には2種類あるから、"好きなことを仕事に"と思う前によく考えよう


"好きなことを仕事にする"という話をたまに聞くことがある。「せっかくの人生なのだから好きなことをやって生きていこう。」というポジティブな捉え方のものもあれば、「好きなことを仕事にしてしまうと仕事になってしまって好きでなくなる。趣味として好きなものは趣味のままにしとけ。」というネガティブなものもある。このように2つに別れるのは、好きなことが2種類あるからなのではないかと考えた。

1つ目の好きなことのは、自分だけの閉じた世界の中のもの。2つ目の好きなことは、自分の外の世界にも開けたもの。他人に貢献するなどの意義を感じるものに近いかもしれない。どういうことか。何かを好きになったとき、それをひたすら自分だけで自分が好きな様に楽しむという行動を伴う場合と、自分がとても好きだから誰かに広めようとする行動を伴う場合がある。自分だけで楽しむような好きなことは、自分が好きなように楽しむことが一番重要なのだから、それが仕事になって、制約やこなす目標値などが設定されてしまうと、自分が楽しめなくなるのでよろしくない。一方で、好きだから誰かに広めたいと思っているようなことであれば、それを仕事にするということ自体が人に広める=売るということと繋がるため、仕事になっても十分に楽しめるし、むしろ相乗効果だと思われる。

ポイントは、好きなものやことの対象によって区別があるということではなく、好きなものを自分自身がどのように捉えていて、それは外に開いたものなのか内に閉じたものなのかということ。換言すれば、仕事にできる好きなことは「人に影響を与えたいと思う方向性の好き」でなければならないということだ。「コーヒーが好きだからコーヒーに関わる仕事をしよう」ではなく、「コーヒーが好きで色んな人に飲んで貰いたいと思っている。だからコーヒーに関わる仕事をしよう。」でなければならない。

2013年5月4日土曜日

お金の流れを理解するためのキャリアプランニング


新卒でシューカツせずに就職して2年が経ち、ぼくは転職して現在2社目。
→就職したときの記事:個人ブログ開設しました。
→転職したときの記事:学生や新卒1,2年目の若者が就職・転職活動せずに仕事に就くのに大切なこと

今回の転職で扱う金額は数万から数百万になった。ぼくは何も変わっていない。ビジネスが変わったからだ。金額規模が大きくなるほど、仕事自体が面白くなる。だけどそこで間違えない方が良いのは、大きなお金を動かしていることと自分の実力は100%相関しているわけではないということ。自分が変わらなくても、環境が変わればそれでだけで変わってしまうものがある。ビジネス単価も給料も、環境が変われば変わってしまう。良くも悪くも。



ようやく、ぼくがフロントに立たせてもらうことになったお客さんがいる。そのお客さん向けに見積を作っていたときのこと。「○○の項目50万とかにしちゃうと、メガネくんが大変だと思うよ。純50万円分の○○をしなきゃいけないから。」と先輩たちに言われた。

ここで考えたことは3つ。1つは、お金はお金を動かすことで生まれている、ということ。1つは、今まで動かしてきたお金が自分の扱えるビジネス規模を決める、ということ。そして1つは、頭だけを使って生み出すアウトプットに対して価値ベースでの値付けができるようになりたい、ということ。

お金はお金を動かすことで生まれている
マーケティングリサーチ業界の案件売上単価は数百万円規模が平均だが、その半分以上が外注費ということがザラにある、非常に儲からない業界だ。外注費を差し引いた中から純粋に知識労働としてお金を積んでいる部分だけを取り出すと、本当に少額になる。

つまり、ぼくらは発注しただけ、お金を動かしただけでお金をもらっているということ。実際は発注作業などの一つ一つの項目に上澄みが乗り、全体に管理コストが掛けられるので、お金を動かしただけでお金を生み出しているわけだ。

銀行などの金融業のことを、お金を動かすだけでお金をもらっていて実体経済を良くしていない、とけなす意見を耳にすることがあるが、銀行だけでなく多くのB2B企業は同じようなことをして儲けているし、それが社会の仕組みなんだ、ということに気づいた。動かす金額が大きくなればなるほど、こういった仕組み的な気付きももっと得られるのではなかろうかと思っている。

今まで動かしてきたお金が自分の扱えるビジネス規模を決める
この業界では100万~1000万強の案件を扱うので、1000万までであれば、どれくらいの作業量でどのくらいのお金を動かす必要があるのかがわかる。

逆を言えば、1000万円以上のプロジェクトはぼくにとって未知の領域であって、部門の年商や会社の年商からイメージをできる範囲のことしかわからない。もし1億円の見積もりを作ることになったら、不安でちびってしまうかもしれない。

頭だけを使って生み出すアウトプットに対して価値ベースでの値付けができるようになりたい
上記の会話について少々乱暴に言ってしまえば、ぼくのチームは、純粋な価値として50万円をもらうだけの○○ができない、ということだ。

この金額感は会社固有であり、ビジネス固有であり、業界固有だが、少なくともマーケティングリサーチ業界、そして恐らくほとんどのベンダー企業は、工数見積りによって決められている。ぼくらは知識に対してお金をもらってるのではない。時間に対してお金をもらっている。なぜなら、一切お金を動かさない、頭だけを使って生み出す価値というのは、値付けが難しいから。コストゼロ、純粋に100万円、1000万円をもらうためにはどんなことをすれば良いのか、わからないし、クライアントを説得することも難しい。ブランドなのか、スピードなのか、品質なのか。品質とは何なのか。

ぼくはこの工数見積りをどうやったらやめられるのかを考えたい。アウトプットを生み出す時間に関係なく、その価値で請求できるようになりたい。労働縮約に見えるところでいえば、アートの世界、戦略コンサルティングの世界などは、きっとそうなんだと思うし、労働集約に限らなければ、たとえば広告なんかは価値ベースの値付けだろう。逆に成果をより厳しく求められるだろうが、その責任の大きさも含めて、価値に対して、知識に対してお金をもらいたい。ただ、これを考えるためには高いお金をもらっている業界で働かないと難しそうだ。


というわけで、扱う事業規模が大きいこと、純利益としてとっているお金が高いこと、の2つを意識したキャリアプランニングをしたい、というのが最近の結論。お金の流れを知るために、お金の流れているところに行くこと。そうでなければ、理解できる金額が小さくなって、働いた時間分しかお金をもらえない、それなりの仕事しかできない人になってしまうと思っている。



一方で、先日友人がこんなことを言っていた。

「前の会社でみんなで宝くじを買ったの。その時に6億円あたったらどうする?という話をみんなでしていて、みんな冴えない答えばかりになっていた中で、一人だけ『おれはこの会社を買う』と言った人がいたのね。その人、いまはその会社の社長なの。」

お金の価値は理解できなくとも、感覚的にお金に対する制限を取り払うことはできる、という例なのかもしれない。この思考の制限を取り払う、という文脈で言うと、少し前にこんな記事を書いた。
[TED] Break The Bias-枠外思考

物事を考えるときに、「今常識として考えられているルール=スコープからいかに抜けだして思考するか」というのが大事なのではないかと最近思っています。ぼくは「枠外思考」と呼んでいるのだけれど。

で、その枠はこのプレゼンでいうならバイアスとして最初与えられているもので、それをスコープをずらしたり、大きさを変えてみたり、そういう思考法をしていかないと新しい価値は生み出せないだろうなという感じです。

たとえば、「1トンの肉があったらどんな焼肉するか?」とか。このときに「焼肉」というと「食べる」ことをセットで想定してしまうけど、「食べない焼肉」だってあるかもしれないですよね。

「宝くじで1億円あたったらどうする?」という問があったとしたら、「使う」ことが前提にあるかもしれないけど、たとえば「返金する」とかもあるかもしれないです。

お金の流れを理解しつつ、お金に対する思考の制限を取り払う。頭の片隅に常に置いて日々精進し、進路を選択していきたい。

異なる立場の会社を数社渡り歩く必要性


ぼくはクライアントワークの真っ只中にいて、「第三者が所詮第三者であって、製品やサービスに最後まで関われないこと」に寂しさを感じ、同時に、「調査後の開発とマーケティングこそ重要」であってその経験を積む必要があると日々考えている。

一方でふと、メーカーのようなB2Cビジネスモデルだけで売り上げている企業"だけ"に属することも、王様感覚になって危ないのではないかと感じ始めた。

なぜなら、コンテンツ産業のほとんどでフリーミアムが基本になってしまっているように、「どこにお金を回してどこをキャッシュポイントにするのか」を考えることがビジネスにおいてすごく重要になってきているが、所謂B2C企業は自分が常に発注者の立場であって、自分たちのビジネスしか考えられないからだ。

製品やサービス単体では売れず、ハコ、コンテンツ、プラットホームが揃わないと普及しなかったり、サービス受給者と支払い者が異なったりということが、当たり前になっていて、こういう状況をクリアするのは一つの会社だけでは不可能だ。

それすなわち、「色々なステイクホルダーがいる中でお互いが得するようにビジネスモデルを作っていく」ということだが、情報の中だけでしか他社ビジネスを理解出来ていない王様企業では、それができない。

実際に他社ビジネスを巻き込む中での経験的理解や肌感覚と情報だけでの理解の間には大きな溝があることを、ぼくは日々の業務で感じている。

なので、"お金を稼ぐことを目的とした"これからの雇われキャリアを考えるなら、一つのビジネスエリアを中心に円形に数社渡り歩く、もしくは、一つのビジネスラインを下流から上流、果ては発注側まで移動していくことで、色々な立場のビジネスを理解するのが理想だと思う。

2013年4月8日月曜日

美容院の新人教育の話を聞いたらとてもしっかりしていた。

ここ1年くらい通っている美容院があって、そこの美容師さんとなぜだか新人育成の話になった。

『メガネさんはえりあしの位置が高いですね~。こういう人の方がシャンプーがしやすいんですけど、ぼくもえりあしが高くて、だからこの時期はいつも新人くんたちのシャンプーの練習台になるんですよ。試験をパスしないといけないんで。』

という会話からだったと思う。
元々美容師業界というのは色々と気になっていたので、これを機に色々と聞いてみた。

すべての美容院がそうなのかは分からないけれど、美容師として一人前になるためにはたくさんの試験に合格しなければならないらしい。どれくらいあるかというと本当にたくさんで、シャンプー、マッサージ、ブロー、カラー塗布などなど、美容師さんにやってもらうサービスのほぼほぼ全てに試験があるようだった。ブローやシャンプーにまで試験があるとは驚きだったけれど、みんな営業時間後か営業時間前に練習しているのだそうだ。

『試験に合格すればするほど、現場に出られますからね。やる気にはなりますよね。カットは一番最後です。』

試験に合格していない初めの頃は、ビラ配りをしたり、室内の髪の毛を掃除したり、電話対応したり、そういうことらしい。

『メガネさんが初めてうちに来てくれた時にビラまいていたAも、今ではいっちょ前に新人に「おい、あれやったのか?」とか言ってますよ(笑』

ぼくの通っているお店の営業は一応20時までなのだけど、お客さんがいたら閉めるわけにもいかず、なんだかんだ21時くらいに営業終了になることが多いらしい。新人のみなさんはここから練習に入る。

『ちょっと前までは夜すごく遅くまで練習していたんです。だけどだんだん遅刻が目立つようになってきて・・・。だから夜は22時までで終了という社長命令がでました。その代わり朝ならいくらでも早く来てやっていいぞって。』

『ただ、練習って言っても結局一人でやらせるわけにもいかないんで、絶対ぼくらが見てるんですよ。だから僕らも朝早く起きなきゃいけなくて、大変です(笑』

『さっき言ったとおりぼくはシャンプーの練習台によく指名されるんですけど、もう眠いとシャンプー中に寝ちゃいそうになるんですよ。でも寝ちゃうとタッチの仕方とか流し方とか、細かいところに全然気付かないので、頑張って起きてなきゃいけないんですよね。』

ココらへんでぼくのカットが終わってしまったのでお話は終了。だけど新人の教育の様子が分かってとても楽しい1時間だった。美容院の教育制度がこんなに整っているとは、という驚きも大きかった。一つ一つクリアしてくことが設けられている状態、というのは最低限一人前になるためのスキルを習得させるにはとてもよい環境だと思う。自分で考えてやりくりする経験は、一人前になって一人でお客さんを担当できるようになってからでよいと思うし。

かつ、上の美容師さんたちが新人のために時間を作ってあげている、というのも素敵だなと。もちろん、毎年睡眠時間を削って新人を教育しなければならない構造は変える必要があるとは思うけれど、新人が放置され続けて育たず、上がずっと現場にい続けなければならない状態よりは、良い状態だろう。



2013年3月24日日曜日

新人社内教育で気をつけるべきこと

先週、去年からベンチャーに新卒入社した友人と話をしたときに、「教えてもらえることって少ないよね」という話題になった。

その彼は元々、「ベンチャーで成長してすぐ辞めてやる」くらいの勢いのある人だったのだけど、いざ働き始めてみてもっと時間かかるなというのが実感としてあるという。何も知らない作業をいきなりやれと言われて泣きそうになった、とも言っていた。ぼくの場合、教えてもないことをやらされる、ということはあまりないのだけど、教えてもらえる職場という意識はあまりない。

で、新人に対する社内教育というものを考えてみたとき、大きく3つに分けられるのではないかと思った。
  1. 作業前のインストラクション(友人の会社でスキップされてる教育)
  2. 作業後のダメ出し
  3. 作業後のほめ
1は小さい会社ではよくスキップされ、大きな会社では逆に十分すぎるほど与えられそうな部分。スキップされるのも大変だとは思うが、一時的なものなので重要度としてはあまり高くないと思っている(ただ、会社全体を組織的に良くしていくなら、この時点で細かくインストしてあげると全体の底上げに繋がることは間違いないと思う)。
問題は、2,3だ。ぼくもまだ2社しか体験していないのでなんとも言えないが、感覚的にはうまく機能していないことが多いと思っている。機能していないというのは、新人がうまく育ってないのではないか、ということだ。なので今日は、この2,3の行為について新人をよりうまく育てるにはどうしたらよいだろうかという視点で、自分の考えを書いてみたい。

転ばぬ先の杖的に書いておくと、そのような欠陥のある社内教育環境だから、自分の不出来を許しても良い、ということを言いたいわけではない。もし実際に自分がもっと教えてもらいたいなと思っても、自分がその環境にいる以上、その中でどうやってレベルアップしていくかをそれぞれ個人が考えるしかない。が、ぼくは自分が先輩の立場、上司の立場になったとしたときに、今のような社内教育環境にしてしまってはもったいないと思っている。もっと新人が伸びる環境があるのではなか、そのためにはどうしたら良いのだろうか、という意図で社内教育について考えているということ。ぼくが今から書くことは一人前の社会人にとっては甘えだけれど、新人にとってはその限りではないはず。世の中マッチョな新人ばかりではないし、そういうマッチョでない人をどうやって伸ばしてあげるかを考えることも、会社としては必要なことのはず。


さて、まとめてみる。

  • ダメ出しをする際は、1点のミスでその背景にあるもの全てを否定しないこと
  • ダメ出しだけのネガティブフィードバックで終わらせず、小さなことでも良かった点を伝えて、ポジティブフィードバックも返しますよ、という意志表示をすること
  • 成果が出ていなくても、改善努力が伺えたらまずその努力していた事実を評価してあげること

ダメ出しをする際は、1点のミスでその背景にあるもの全てを否定しないこと
一番上に書いた割に一番伝わりにくい気もするが、一番大事なことだと思っているので初めに伝えたい。
例えば、「こういうときはこうしてね」と、根幹のルール的なものを新人に説明したとする。そして結果を見てみたら一箇所そのルールに沿えていないところがあったとする。このときそのミスについてどう言及すればよいだろうか。
ここで「さっきこういうときはこうしてねって言ったじゃん。気をつけてよ。」というのはNG、だとぼくは思う。1つしか間違っていなかったということは、裏を返せばその他は全て正しかったということ。こちらが教えていたルールを新人は理解して、実践しようとしていたということになる。なので、上記のように「さっきこう言ったよね?」という風なダメ出しをすると、新人としては「そのルールに沿うように気をつけていたし、そこ以外はできてるじゃん」となってしまう。つまり出来ていることは評価されずダメなところばかり指摘されたような気分になるのだ(下段落に関係)。また、上司としてもそのミスの本質を見逃している。
ここで修正すべきことは、ルールを適用させる箇所が抜けていたこと、厳格に適用させる部分の欠陥だ。なので根幹の部分ができないわボケというコメントは生産的ではなく、ここでは再確認の必要性や失念を防ぐための工夫をするように促すことだと思う。


ダメ出しだけのネガティブフィードバックで終わらせず、小さなことでも良かった点を伝えて、ポジティブフィードバックも返しますよ、という意志表示をすること
甘えだというヤジだ飛んできそうだけど、これも必要なことだと思う。ダメ出しばかりされてると人間やはり卑屈になってしまうものだ。少しでもいいからポジティブなコメントを返してあげることで、新人としては「ちゃんと見てもらえてる感」を持てると思う。ダメなところは嫌でも目につくのでコメントしやすいが、良いところを見つけてコメントしてあげることは意識しないと意外と難しい。ダメなところしかない人はそうそういないはずなので、ちょっとほめすぎかも?くらいでいるとよいかも。


成果が出ていなくても、改善努力が伺えたらまずその努力していた事実を評価してあげること
これは結果の前にまず過程・姿勢を評価してあげようということ。例えば、新人が致命的な間違いをしたとする。根幹部分の理解ができていないということがわかったと。その指摘をした後、完全に改善ができるまでにはある程度の時間を要するが、その途中でも「少しずつ良くなってるね」のように、ポジティブフィードバックを返してあげようということ。そうしないと、新人が自分はうまく改善できているのかの進捗がわからないし、何より自分の努力が報われないように感じてしまう。新人だって口には出さなくても色々と試行錯誤しているものである。結果しか評価しないということは、新人のそういう頑張りを無下に否定しているということになるので、その姿勢を認めてあげた上で、その努力の方向性で良いのか変更すべきなのかを伝えればよい。もちろん、本来は成果があってはじめて評価されるべきものなのだけど、新人にいきなりそのスタンスで望むとたぶん挫折する人も多い。


以上。

この考えを別の友人に話をしたところ、「そうやってほめてあげないとモチベーション出ないなんて、そもそもダメじゃね?」という意見が返ってきた。ぼくはそうは思わない。モチベーションはタネと水がそろってはじめて育っていくものだと思うから。モチベーションのタネを持っていて最初はやる気のある人でも、ずっと砂漠に放置されていては出る芽も出ない。タネを持っている人がいたらちゃんと水を与えてあげることが大事。もちろん、働き始めて何年も経っている人に対してはその必要はないが、まだ右も左もわからず、一人立ちも出来ていない新人にはしっかりと水をあげ、一人前になったあとに、成果主義の厳しい世の中を体験させた方が良いのではないだろうか。そうしないと本当にマッチョな人(=水がなくても育つタネをもった人)しか育たなくなってしまうと思う。

甘いと思う人も多いだろうが、学生の時に遅刻してた人が社会に出てからも遅刻するわけではないのと同じように、新人の頃に手厚くケアしてあげたからといって、一人前になっても自分でメンタルをケアできない人になるわけではない。「自分で頑張れば評価されるし結果も出せるようになる」という意識とその体験が、後々踏ん張れる人間を作るのではないだろうか。

2013年2月25日月曜日

ぼくにとって菊名のシェアアパートとはなんだったのか。

大学を卒業してすぐ、ぼくはシェアアパートに住み始めた。初めてのシェアライフ。アパート自体もオープンしたばかりだった。あれから2年、ぼくはその場所を去ることにした。

明確な理由があったわけではないけれど、慣れきってしまった環境からは早めに足を洗った方が良いのではないかという気持ちとか、このアパートがオープンしたときからの住民を見送り切って自分だけが残る状況も嫌だなとか、そんな感じ。

次もシェアアパートに住むんだけれど、一人暮らしにしとけばよかったかなと少し後悔するくらい、ここでの生活は特別なものだった。ぼくにとってのシェア生活とはここでの生活であり、シェア生活を共にした住民はここの住民だ。この記憶と思い出をキレイにそのまま無菌室に入れて、墓場まで持っていった方が良かったんじゃないか、くらいの気持ち。

何が特別だったんだろう。こういうことはあまり触れずにそのままそっと心に留めておく方が、尊いものに対する扱いとして良かったのかもしれない。だけどこの場所はぼくを間違いなく変えてくれた。その変化が何で、どうして起こったのかを整理することで、この2年間を一生自分の中に生かし続けことができると思うので、言語化してみたい。


シェアアパートという住環境を簡単に振り返ってみる。あえてリンクは貼らない。言ってしまえば、ここは寮だった。ただ、ここに住む人たちには属性としての共通点は何もない。あるのは「このアパートに多かれ少なかれ興味を持った」ということだけ。出身地も年齢も仕事もバラバラ。そんな人間が50人も共同生活を送る。そしてその50人という住民の多さを利用し、共益費としてお金を取ってオシャレなラウンジと広いキッチンスペースを作る。ここが住民の憩いの場となる。基本の生活は自室でほぼ完結する。

今でこそドラマやらドキュメンタリーで取り上げられているけれど、2年前は系列のアパートが5軒くらい都心にあって、少しシェアハウスをやっている人たちがいるくらいだった気がするから、普通の人から見たらシェアという生活自体が特異な環境だっただろう。さらに、シェアアパートは大きな住宅で、何十人もの知らない赤の他人といきなり一緒に暮らす、というところだから、明らかにシェアハウスとも異なる。周りはシェアハウスに住んでるんでしょ?と言うわけだけど、全く違う。ぼくが好きなのはシェアアパートであって、シェアハウスではない。

話を戻そう。人によって生活時間帯は異なるから、50人全員が一堂に会することはない。50人の内20人くらいは、結局共有スペースに降りてこないという現実もある。なので普段は5人~10人くらいが同じ時間空間を共有しているイメージだ。料理をしている人、テレビを見ている人、仕事をしている人、勉強をしている人、コーヒ-を飲んでいる人、ゲームをしている人、ご飯を食べている人、お皿を洗っている人、寝落ちしている人、雑誌を読んでいる人、それぞれ自分のやりたいことをしながら、おしゃべりする。そして部屋に戻る。テレビがかなり大きいので、よく映画もみんなで観た。平日なのに夜な夜な語り明かす夜もあった。週末にはパーティーをする。誰かが誕生日ならサプライズパーティーをする。行きたい場所があれば誘ってみんなで行く。食べて飲んで騒いだり外に出てたりする機会は、圧倒的に増えた。

こんな環境だったものだから、影響を受けやすいこともあってか色んな人の趣味を、自分もまた好きになった。コーヒーを毎朝豆から飲んだり、カフェめぐりを一人するようになったり、ワインを飲むようになったり(と言っても味はよくわからないが)、映画を観るようになったり、美術館や展示を観に行くようになった。

働き始めたばかりの同年代同士では、よく仕事の話をした。愚痴も言った。でもそれ以上に、これからどうしていこうか、という部分の言語化作業をサポートし合った側面が大きかった。こういうところに来る人だから意識も高かった。その時助けてもらった同志たちの一部はすでにここを発ち、各々のフィールドで頑張っている。世代的に上の人たちにもよく相談した。聴いてもらえるだけで救われた。仕事で疲れて帰ってきても、終電で帰ってきても、誰かがいて、話が出来たから、やってこれたんだと思っている。死にそうになって帰ってきて暗い部屋に一人でいたら、心が暗くもなるのは当然だ。体調がすぐれないときも、助けてくれる人たちがいたのはありがたかった。

もちろん、こういう楽しいことばかりではなかった。学校と一緒だ。最初はみんな取り繕うんだけど、だんだんと良いところも悪いところも当然目につくようになる。自分が嫌な人間になっていることもあった。それでも妥協してみたり改善しようとしてみたり、そういうことをぐるぐる考えるのも良い経験だったと思う。住民同士のコミュニケーションも住環境も、自分たちで整えようとしていた。住環境に関してはやはり進んで事が起きにくかったが、大掃除を企画してくれる人がいたり、何も言わずに溜まったお食器類を片付けてくれる人がいたり、密かに備品を買い足してくれる人がいたりして、うまく回っていた。

こういうこと全部含めて、菊名はホームだったと同時に、一つの社会であり経済単位だった。この小さな社会での生活を通して、経済活動は元を正せば交換されたもの自体の価値ではなくて、交換してくれた相手に対する感謝の気持ちや好意が起点だったのではないか、ということを強く感じている。一緒に住んでいると生じるコミュニケーションの量がとても多いから、ここではたくさんの交換が行われる。自分が主体のこともあるが、それ以上に他の住民間の交換を頻繁に目にする。お金ではなくて、相手への好意や日頃の感謝の気持ちを、交換している様子だ。一緒にどこかに行くにしても、料理するにしても、毎日ありがとうが聞こえてくる。こういう環境が果たして今まであっただろうか?ぼくにはなかった。


だからここに住み始めて1年半くらい経った頃から、日頃のお礼をしたい、喜んでもらいたい、という想いが強くなっていることに気がついた。振り返ってみると、料理を振舞ったり、おみやげを買ってきたり、溜まった食器を洗って片付けておいてみたり、ささやかだけどそういうことが増えたと自分では思っている。優しいみんなのおかけで、少しは優しくなれたのかなと。常に優しくいられる人間ではないことはわかっているので、少しだけだけど。同時に、カネカネ!という冷たい印象のあった経済活動も、こういう風に解釈し直して見ると実はとても素敵なことなのではないかと感じている。

何が言いたいかというと、きみの昨日の優しさが、今日のぼくの優しさで、今日のぼくの優しさが、明日のだれかの優しさになるのでないか、ということ。かつてはそういう循環が経済活動だったのではないか、ということ。現状世界は冷たいように見えるけど、目の前の人に優しくなれたら、その目の前の人がまただれかに優しくして、巡り巡ってまただれかが、優しくなれるかもしれない。逆に、周りの言動から自分への優しさを感じとることができたら、今度だれかに優しくしたくなるかもしれない。世界は変わらないかもしれないけど、こうしてみんなが少しは幸せになれるかもしれない。そんなおとぼけ理論を放言してしまうくらいには、この2年間でぼくは変わったのだ。

引越し作業中、大学4年生のときのものであろうマインドマップの紙が1枚出てきた。一番上に大きく「冷たくて優しい人間になりたい」と書いてあった。冷たいだけの人間だったけど、ここのおかげで少しは近づけたかなと思っている。

ここまで書いてだいぶ整理された気がする。これでここはここのまま残して、次のアパートに行けそうな気がしてきた。菊名で時間を共有してくれたみんな、ありがとうございました。次はどんな変化が生まれるのか、素直に楽しもうと思います。

2013年2月22日金曜日

環境を変えるのか、その中で耐えるのか。

「今の環境が嫌だから、やめたい」と言うと、「そんなんじゃどこに行ったってやめたくなるだけだわボケ」と言われることがある。大前研一氏の自分を変えるための教訓の第一項として出てくるのが「環境を変える」なわけだが、環境を変えないと何も出来ない人は環境を変えても何もできない、という否定意見もまた多い。

「今の環境が嫌だからやめたい」はダメなのか。
自分がうまく立ち回れた環境を経験したことがない内はやめない方がよいと思う。その前にやめてしまうといつまで経ってもやめ癖が抜けないと思うから。自分の中での基準みたいなものを作るためには、一度成功例を作っておいた方が良い。

似たような話で、「嫌だからやりたくない」と言うと「嫌なことやらないなんて仕事になんないわボケ」と言われることがある。好きこそものの上手なれ、とか、好きなことなら努力できる、とかそういう諸説がある割に、嫌いなことをやらないという意見を否定する声もまた多い。

「嫌いだからやりたくない」はダメなのか。
「やりたくない」には「やりたいことをやるためにやらなければならないやりたくないこと」と「そもそもやりたくないこと」の2種類があると思う。やりたい/やりたくないを好き/嫌いに置き換えてもよい。そういう人にとって前者のやりたくないことを実はやりたくないことと勘定していない可能性がある。もしそうなら、やりたいことを仕事に出来ていれば、やりたくないことだってやるわけだから問題ないだろう。

ただ、そもそものやりたいことが見つからないから全部やりたくない、というのであれば、それは我慢し働いた方がよいと思う。そういう自分の中に答えのない人はいつまで経ってもやりたいことは見つからないと思うからだ。やりたいことは自分の中で作るものであって、他人から受け取れるものではない。





さて本題。
こんなことを考えているうちに、どうして環境による影響は無視されてしまうんだろうということを考えた。みんな口を揃えて今の自分の実績(良い状況)が得られたのは環境が良かったからだと言っている割に、環境を今の自分の有様(良くない状況)の原因にする姿勢に対しての風当たりは強い。

要は他人のせいにしているやつは甘えだ、という主張。言いたいことはよく分かる。結局自分を変えるのは自分自身である。だけど、そこに与える環境の影響が絶大なのもまた確かなはずだ。

でも彼らはさらにこうかぶせるかもしれない。
「世の中そんなに甘くない。自分とマッチする環境に巡り合える確率なんて高くない。探している内に何もせぬまま死ぬぞ。」

仰るとおりだと思う。でもぼくはオッサンたちにこう言いたい。
「それならそういう環境を作ってるオッサンたちが、部下たちがイキイキ働けるような環境を作ればいいんじゃないんですか。」

そうすると彼らはこう言う。
「まだ大した価値も生み出してないお荷物がいっちょまえに意見するな。」

意見する権利を得るのに何か生み出した価値が必要なら、その世界は基本的人権が侵されてるんじゃないんですか、と思ってしまうわけだが、これも彼らからすると甘えである。





環境が人を変えるというところの例として、大学生の遅刻、ドタキャン現象を考えてみたい。おそらくどの世代の大人であっても、大学生は信用できないと思っていると思う。ぼくもそう思うし、大学生時代の自分にもそういうところがあったと思う。

で、大人たちは遅刻したりドタキャンした大学生に対してこう言う。
「そんなんじゃ社会に出てからやっていけないぞ。」

ぼくはこの解釈は間違っていると思う。こういう経験をして、卒業まで遅刻やドタキャンを繰り返し続けた学生も、社会に出た途端に、遅刻やドタキャンをしなくなると思っているわけである。

つまりこの遅刻やドタキャンをするという傾向は、属人的な性質ではなく、大学という環境に慣れきってしまった結果として現れている性質だ、ということ。根拠はない。感覚的な話である。おそらくだけれど、ここ数年に大学卒業した人たちならばなんとなくわかってもらえるのではないかと思う。

一方で、大学生活が遠い昔の大人たちは、この感覚を忘れてしまっている。だから当時自分も同じようなことをしていたことは棚にあげて、「遅刻やドタキャンをしている大学生はダメだ」とか言う訳である。昔は自分もそうだったでしょ?でも変わったんでしょ?それは自分で意識して変えていこうとする前に、環境がそうさせたでしょ?ということをぼくは問い正したい。

これを思い出す事が出来れば、自分の環境つくりの下手さを棚上げして若手社員の不出来さを批判するオッサンたちが減り、環境が良くなって、若手もオッサンもハッピーな社会になるんではないでしょうか。超人であれという発言は、世の中を良い方向には1ミリも動かしていきませんよ。

2013年2月2日土曜日

ストレッチせざるを得ない状態を作る

2013年の目標の一つが「脱甘え」なんですが、そのために何が必要かというとストレッチ<せざるを得ない>状況だと思っております。

環境関係なしに自身を鼓舞できたらパーフェクトなんですけどそうそう上手く行くこともないんだなというのが転職してからの実感だからです(それが甘えだ、と言われるとどうしようもないんですけど)。同じ人間とは思えないほど仕事への取り組み方が変わってしまいました。理想は変わらないんだけどね、こころの中の。

ぼくの理想は、自分の能力では完遂できないギリギリのラインの仕事に取り組み続けること。

ですが実際は、先輩方に迷惑をかけてしまう前提のチャレンジは、やはり手をあげにくいし、時間が経つほど今の環境に染まってしまって受身になる自分がいました。

なので、まずはもうストレッチ<せざるを得ない>状況を作って、理想に向けて強制的に走らせようと。

でもモチベーションがないので、そんな状況簡単につくれるわけもなく。Facebookで言語化してみたり、社長に相談してみたり、自分の今にも消えそうな灯火状態のモチベーションでもなんとか一歩を踏み出せるようなことに手を出してみたり、暇なんですと連呼してみたりして、漸く、漸く、ストレッチ<せざるを得ない>状況を作り出せてきました。うちはプロジェクトベースなので、一時的なものでしかありませんが。

ということで、今日ストレッチモードに入れたことを記録として残しておきます。

その内容自体というのは、データ入力300時間とかではなく(自分の責任でフロントに立つわけではないけれど)レポートに関わることで、「こういう風に書いて」という指示があるわけではなくて、自分でクライアントの持っている課題と今回の調査目的と、レポートを誰がどういう用途で使うのか、を考慮した上で、何をどのように見せたらよいのかウンウン言いながら作業することなので、非常に意味がある。




それと、今回こういう機会に恵まれたのは上にいる先輩が結果的に任せてくれるひとになったことが大きい(こうなるだろうことはある程度見越した上でプロジェクトに志願しましたけど)。
やはりほとんどの若手の成長は上の人間によって決まってしまうと思います。
ポイントは上司の個人の能力ではなく、管理能力というかマネジメント能力。全部自分で仕切りたいひと、完璧主義者のひとが上司に当たったら、まずは違う上司の下につけるよう画策した方がよい。
もしそういうローテーションが難しいなら、自分で勝手に、その上司に指示されるより前に自分なりの答えを作るようにがんばる(これがぼくはなかなか出来ないんですが)。

ぼくの場合今回取っ掛かりを掴めたので、ここでちゃんとしたレポート書いて「次も任せてみるか」と思われることが出来れば、ストレッチ状態はキープできるはずなので、ここで一発頑張ります。

2013年1月6日日曜日

オーストラリアの経済についてちょっとだけ考えてみた

年末年始にプライベートでオーストラリアに行って来ました。そこで経済面で感じたこと、考えたことを整理したいと思います。

物価が高いオーストラリア
まず感じたことは「物価が高い」でした。外食すると、普通のカフェですぐに20AUDくらい行ってしまいます。円安に転じ始めた今1AUD=91円くらいなので、1800円/食でしょうか。不動産も高いらしく、シドニーだと一人暮らし1週間で300AUD(シドニーでは1周間ごとの支払いとのこと)はかかると聞きました。1ヶ月で12万円弱なんて高すぎます。

シドニーのDarling Harborにあった水族館は入場料が38AUDでびっくり。(今ネットで調べてみたところ、オンラインでチケットを予約すると26AUDとだいぶお得でした)

で、オーストラリアのインフレ具合を調べてみました。
選んだ国は適当です。インフレ率と実質金利を見てみました。物価も上がっているし、実質金利も下がっています。






給料も高いオーストラリア
給料はどのくらい日本と違うのか、ということで友人に聞いてみたところ、メルボルンのある週では最低賃金が18AUDになっていて、夜や休日時はさらに上がるということでした。

少し古いデータですが、給料がどのくらいなのかを示したものがありました。
1週間の平均賃金がこの金額ですので、1ヶ月では5200AUD前後、日本円で46万円。年収にすると550万円。日本の平均年収が400万円くらいですので、150万円の開きがあることになります。(年収は分布に偏りがあるので平均で語ることはできないと思いますが、傾向として。)

結局オーストラリアで生活した半年で、私の友人は9時ー17時生活で10,000AUD近く貯めたと言っていました。正社員でないため保険や税金などの天引き額が少なかったかもしれませんし、ルームシェアをしてうまく家賃を抑えたと言っていたので、それが理由なのかもしれませんが。

友人の所感では、「お金をたくさんもらって、たくさん使う、そういうサイクルがある」そうで、大学の授業料も支払い能力のない人は支払わなくてよいようになっているとのことでした。

教育にかける公共支出のGDP比は下記のようになっています。


Data from World Bank


サクッと働いてパッと遊ぶオーストラリアは一人あたりGDPが日本より高い
元々なぜ日本はこんなにたくさん働かないといけないのだろうと思っていたので、一人あたりGDPを調べてみました。


今回選んだ国の中で日本は一番一人あたりGDPが低く35,000USD弱で、オーストラリアは40,000USD(ここでもノルウェーの飛び抜け具合が気になりますが本筋ではないので触れません)。
この差が大きいのか小さいのかは勉強不足でわからないのですが、どこから生じてくるのか?ということを考えてみようと思います。

まず労働参加率を見てみました。

日本だけ5%ほど低いことがわかります。


次に失業率を見てみました。



失業率はオーストラリアの方が高い数値で推移してきているようですが、長期での失業率(27週間以上職を探している人の失業人口に対する比率)を見てみるとオーストラリアは日本よりも労働流動性が高いことが見えてきます。

また、オーストラリアと日本の生産年齢人口比率(2010)はそれぞれ67%、64%(参照元はこちら)。

これらを総合して、
  • オーストラリアの方が生産年齢人口が多く労働参加率も高いので、そもそも労働に従事している人の比率が高くなり、結果一人あたりGDPが高いのではないか。
  • ・なぜ労働参加率が高いのかという点においては、労働流動性が高く人材が各々産業で最適化されていることが理由なのではないか。
というのが勉強不足ながら考えた結論です。

ちなみにオーストラリアはGDP自体の成長率も堅調のようです。


GDPの産業比と推移は下記のような状況だそうです。

最近伸びているのは金融とプロフェッショナルサービス(会計士・コンサルタント、建築家、法律家などのホワイトカラーでしょうか)のようです。

その内訳が下記のようなビジネスということでしょうか。

全体の構成比としては70%がサービス業で、鉱山産業が関係産業まで含めると20%を占めているようです(参照元はこちら)。産業構造の影響も気になるところですが、ちょっと力尽きてしまったのでここまでにしたいと思います。

実際に他の国に行って(できれば住んで)、データと照らし合わせて、色々な国の良いところと悪いところをもっと知っていきたいところです。